真情を語る言葉の重さ

 朝日新聞の第1面、左下のあたりに「折々のことば」という小さな記事がある。誰かの言葉を引用して、執筆者が感想めいた簡単な解説を付けたものである。執筆者は鷲田清一氏。大阪大学総長だった人、と言うよりは、一時、その文章が大学入試に最もよく出題されることで有名だった哲学者である。
 私は、「今日はどんな言葉かな?」という程度の意識でちらっと目を通す。鷲田氏のコメントまで読むことはあまりない。玉石混淆、いつも何かを考えさせてくれる含蓄のある言葉が選ばれていたりはせず、他愛もない言葉である場合も多い。
 そんな中で、12月22日の言葉は印象的だった。立派な文学作品や、著名人のインタビュー・演説の類いからの引用ではない。言葉の主は「日本看護管理学会」と書かれている。ホームページなのか、紀要や声明の一節なのか・・・そこまでは書かれていない。さて、肝心の言葉は次のようなものである。

「私たちは自分の仕事を全うするだけですので、感謝の言葉は要りません。ただ看護に専念させて欲しいのです。」

 他愛もない言葉の代表格みたいなものである。にもかかわらず、これは「真情」を本当に素直に、何の力みも衒いもなく言葉にしたものとして、ひどく印象的だった。おそらく、東日本大震災の時の自分の経験に照らして、私はそれが「真情」であると察したのであろう。
 例えば、医療関係者の奮闘に敬意と感謝を表すためにとして、どこかのテレビ塔が青くライトアップされたり、病院の向かい側のビルに「医療従事者の皆さんありがとう」というような横断幕が掲げられたとする(まったくただの仮定ではなく、どちらも報道で目にしたことがある)。テレビ局がやって来て、医療関係者に「あれを見てどのようにお感じになりますか?」とマイクを向けたとする(これも実際に目にしたことがある)。そんな時に、その取材をいかに煩わしく感じたとしても、「嬉しいですね」とか「頑張ろうという元気が湧いてきます」とかいう以外の言葉を述べることは難しい。だが、それが本心かというと、少なくとも「常に」そうとは限らないだろう。こんな場面でだ。上の言葉が、「真情」として重い意味を持つのは。インタビューの際には絶対に言えない。
 東日本大震災の時にも、全国からわんさか支援物資が届けられ、ボランティアが来てくれた。ありがたいことではあっても、それが「常に」ありがたいわけではない。静かに見ていて欲しい時もある。放っておいて欲しい時もある。それは、過剰であったり、自分自身の立ち直りに専念したい時だ。だが、マイクを向けられれば人の善意に配慮して模範解答(嬉しいふり)をせざるを得ず、模範解答をすれば、それがまるで被災者の「真情」であるかのよう一人歩きを始め、場合によっては煩わしい支援や励ましが数を増すことになる。
 医療現場でも同様に、嬉しがることの強制、更にはそれによる悪循環がある(あった)のではないか?個人が発信すると当たり障りがある。だから、学会が代表して、出来るだけ人の善意を否定しないように気をつけながら、言うべきことを言った、ということなのではないのか?
 ところが、鷲田氏のコメントは、「時に家族にすら業務の実態を隠さざるを得ない。社会の『偏見』に追いつめられていると、学会は訴える」というものだ。私の理解とはまったく違う。真逆と言ってよいほどだ。「感謝の言葉は要りません」という部分からすると、鷲田氏の理解は的外れに見えるのだが、もしかすると、新聞掲載部分の前後に、鷲田氏のような理解こそが正しいと考えるべき何かが書かれているのだろうか・・・?

 

注)読者の方から、オリジナル「看護管理学会声明」というのがネットで簡単に見られるというご指摘をいただいた。早々読んでみると、確かに鷲田氏の理解の方が正しい。だが、「折々のことば」引用部分からそう読むことは難しい。感謝の言葉そのものが煩わしい、もしくは仕事の邪魔になると読める。私は、鷲田氏の書き方(引用の仕方)が悪いと思うので、あえて上の文章を残し、その旨注記しておくことにした。