再論『人新世の「資本論」』(2)

 著者は政治家は期待できないと言っている。政治家は、資本主義の枠にどっぷりと浸っているだけでなく、「次の選挙より先のことを考えることができない生き物」だからである。環境問題克服のためにまず求められるのは、ある程度長期的な視野である。
 しかし、昨日見たようなコモンの民主主義を、世界中の各地で早急に実施することがいかに現実離れをしたことか考えてみると、やはりどうしても「強力な指導」が必要である。「強力な指導」によって著者が言うような価値観の転換を図り、資本主義を脱して脱炭素社会を目指す方が、それぞれの小さな地域毎に民主的コミュニティを組織、機能させていくよりは現実的だろう。小さな民主的なコミュニティを実現させるためには、それぞれの組織にリーダーが必要で、しかも圧倒的多数の住民が問題意識を共有していなければならないが、選挙で指導者(政治家)を選ぶのであれば、過半数が問題意識を共有していれば済むからである。
 この辺のことについて、著者の言うことは錯綜しているように思われる。例えば次のようなことを言う(番号は私が便宜的に付けた)。

①    トップダウン型の政治主義は資本主義を必死に維持しようとする。
②    気候変動への対処には国家の力を使うことが欠かせない。
③    国家に頼りすぎることは気候毛沢東主義(より効率が良く平等主義的な気候変動対策を進める中央集権的な独裁国家)に陥るからこそ、コミュニズムが唯一の選択肢なのだ。
④    コミュニティや社会運動がどんどん動けば、政治家もより大きな変化に向けて動くようになる。すると、ボトムアップ型の社会運動と、トップダウン型の政党政治は、お互いの力を最大限に発揮できるようになる。

 これらの言葉に含まれる矛盾と、冒頭に書いた「(政治家は)次の選挙より先のことを考えることができない生き物」だという言葉とを重ねてみれば、著者が政治家や政治をどうしたいのかはやはり非常に分かりにくい。私などは、人間が目の前の欲望に弱すぎるから、それに逆らって気候対策を強行する人が政治をする必要があると思う。
 そんな人を政治家として選ぶのは、そんな人がそもそも立候補してくれるかどうかという問題もあって非常に難しいのは確かなのだが、それでも、理想的に民主的で環境についての問題意識を構成員が共有できている無数のコミュニティを作ることに比べれば簡単なはずだ。①は、資本主義を必死になって維持しようとするような人を政治家として選ぶな、というだけのことだろう。④は政治家の役割が何だか分からない。③について、そもそも民主的に選挙で選ばれた人による独裁は独裁ではない。みんなの利害が対立し、気候変動対策へ向けてほとんど何もできていない現状を思うと、やむを得ないとして選択するのは「あり」だ。私は著者にぜひ衆議院議員選挙に立候補して欲しいと思う。そして、気候毛沢東主義なのか、それとも民主的なコミュニティ作りなのかは知らないが、脱資本主義を前提として、気候変動対策をリードして欲しい。そうでなければ、この本に書かれているような主張は、若いマルクス経済学者の奇をてらった「評論」でしかない。
 そうこうしているうちに、今月の4日、IPCCが第6次報告書を出した。報告書が出るたびに内容も文言も厳しさを増している。それによれば、産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑えるためには、遅くとも2025年までに温室効果ガスを減少に転じる必要があるという。あと3年だ。絶望的に厳しい。私が見る限り、人はごまかすことばかり考えて、本気で温暖化を解決させようなどとは一切考えていないのだから。
 いかに今が切羽詰まった状況にあるか、しかも、それは私たち一人一人の生活によって生じているのだ、自分が何もしなくても技術や政治が解決させてくれるなどあり得ない・・・こういったことをもっともっと強く人々に訴えること(=啓蒙)から全ては始まる。政治家が「次の選挙より先のことを考えることができない生き物」であるのは、有権者が「次の選挙より先のことを考えることができない生き物」だからである。その点を肝に銘じなければ。