立憲君主制再考・・・天皇と政治家

 4日間、母が1人で暮らす実家に帰っていた。東京から妹も帰っていた。以前も書いたことがあるが、実家に帰ると私は暇を持てあます。自宅では「主夫」の私に、実家では女手が多いからということで仕事が回ってこない。知的活動をしようにも、本を始めとする資料がない。インターネットの回線もない。持って行った本を読もうにも、落ち着いて閉じ籠もれる環境がない。仕方なく、あれこれとすることを探す。
 5月1日は、中学校時代の恩師を訪ねた。齢78歳なのだが、頭は明晰で、そんじょそこらの教員と話をしているよりは啓発されることが多い。この方は、校長どころか、市の教育長も務めた方なのだが、まぁ、私が2~3年に1度訪ねるくらいだから、思想的には体制側からかなり遠い。
 なにしろ、元号が変わった初日である。話は天皇、皇室といったものにも及ぶ。私が今回少し意外だったのは、その先生も、明仁上皇徳仁天皇を非常に高く評価しているということである(→私の上皇・天皇観)。そして、上皇天皇のどこに偉さを感じるか、という話をしながら、対極的な存在としてたびたび話題になったのは、首相を始めとする政治家たちである。
 この時、私にはふと気付いたことがあった。なぜ上皇天皇がこれほど尊敬に値するのに、首相が軽蔑の対象でしかないのか、ということを考えた時、上皇天皇は選挙で選ばれたわけではなく、首相は選挙で選ばれているということだ。
 つまり、選挙で選ばれた人間は選挙民の質を反映する。国民がバカであれば、国会議員もバカがなることになるし、その国会議員によって選ばれた首相もバカだ、ということになる。なにしろ、「令和」という元号を発表しただけで、内閣支持率が10ポイント近く上がるのである。国民の意識がいかに低いかということは、その一事からでも十分にうかがい知れる。全ては金。それ以外の価値観は理解できない。そんな政治家がわんさかいることは、間違いなく国民の反映である。次の選挙で勝つことを考えたら、政治家が目先の利益主義、大衆への迎合に走ることは責められない。民主政治の構造的な問題なのだ。
 一方、選挙で選ばれていない天皇は国民の質に影響を受けにくい(宮内庁の人事は政治家によって行われるから、影響はもちろん及ぶのだが、国会議員が首相を選ぶことに比べれば間接性が高い)。失脚の心配がなく、国民の顔色をうかがう必要もない。そのため、利害打算にとらわれない長期的で理念的な思考が可能となる。加えて、完全に世襲であるため、一度賢明な天皇なり侍従長なりが生まれて優れた思想が皇室に蓄えられれば、それが皇嗣に継承されていく可能性も高い。
 独裁(専制)政治と民主政治とどちらがいいかということを考えた時、優秀な人物による独裁の方がいい世の中を作る上では有効である。議論による停滞がない上、強い力で世の中を強引に動かせるからだ。この場合の「優秀な」というのは、実務能力においてではなく、目の前の利益に振り回されない哲学的な思考力においてである。

 しかしながら、民主的な手続きで独裁者を選ぶ場合には、そのような人間はたいていの場合、独裁者にはなれない。いや、独裁者以前に、政権を取ることができない。独裁者になれるのは間違いなく、権謀術数に長けた悪辣な人間である。一方、世襲による政権は、必ず最悪の人間が生まれてくる可能性を含む。いずれにしても、ひとたび悪の独裁者が暴走を始めた場合、それを止めることはできない。悲劇である。

 だとすれば、そうそう立派な政治は望めないがどん底になることはなく、仮に世の中が悪くなったとしても、回復の手段があり、自分たちが選んだ指導者によってそうなったのだから諦めがつくという民主政治の方が、総合的に考えるとマシだ、ということになる。民主政治というのは、最善を諦めることで最悪を回避し、「ほどほど」に安住するための極めて妥協的なシステムだ。
 上皇天皇と首相や閣僚との対比は、そんなことに思い至らせてくれた。民主政治と独裁(世襲)と、それぞれのいいとこ取りをする方法というのはないのだろうか?あふれるほどの皇室に関する報道を見ながら、私ごときが考えても仕方がない、そんなことについつい思いをめぐらせてしまう。
 思うに、天皇を始めとする皇族が、もっと自由に個人的な意見を述べればいいのではないのだろうか?政治家が法律として何かを決めない限り、天皇の意見といえども、政治的効力はないのだから、皇族が政治を含めた社会のあり方について個人的意見を述べたところで、直ちにそれを政治的行為だと言うのは極論なのではないか?政治家は、皇室の人たちの個人的意見を、あくまでも参考として国会に臨めばいい。だが、政治家は皇族の意見をある程度は尊重しないわけにもいかない。ここに、民主政治と独裁体制との折衷的な政治は成り立たないものだろうか?
 そんなことを考えていると、現在の立憲君主制は正しいのだろうか?立憲君主制とは、前段で私が書いたようなものでこそあるべきなのではないだろうか?という考えが兆してくる。もしかすると、それは新しい考え方なのではなくて、本来の立憲君主制なのかもしれない。それが、何かの都合(たぶん政治家の都合だろう)でバランスを失い、君主の存在意義が政治において有名無実化してしまったのではないのだろうか?
 もちろん、人間が元々不完全な存在である以上、どんな方法を採ったにしても、問題は完全にはなくならない。しかし、現在の立憲君主制は、憲法によって君主の暴走を止めることに意識が偏りすぎていて、君主の利点を生かすことについての意識が低いのではないか?そして、骨抜きにされた君主は、政治家によって利用される存在に成り下がってしまう。
 いずれにせよ、立憲君主制というものについて、現在の理解を唯一絶対のものとは考えず、その理想的なあり方というものについて、改めて考えてみた方が良さそうだ。