男女の違い雑感(2)

 昨日書いたようなわけで、私はあらゆる職業において、その仕事に従事する人の男女比率を同じにするなど、まったくよいことだとは思っていない。
 が、男女の比率が近い方がいいのかな、と思うほとんど唯一の職業は政治家だ。男女どちらにとっても住みよい世の中を作るためには、それぞれの視点が必要だからだ。だが、政治家は選挙で選ばれる。有権者数は、平均寿命の長い女性の方が常に多い。にもかかわらず、女性政治家が少ないとすれば、人々が男性の方がいいと思って、もしくは性別を気にせずに投票し、結果として男性候補者が支持を集めたか、立候補の時点で女性が少ないかだ。だが、後者とて、女性に対する特別な見方による制約で立候補できないのか、そもそも、女性が政治家になりたがらないという心性を持っているものなのか、その見極めは難しい。
 出産・子育てという事情を問題にすると、男の協力が足りないから女性にしわ寄せが行っている、という人もいるだろうが、少なくとも、私の経験上、男の側(=私)がどんなに努力をしても、幼い子供は女性(母親だけでなく、時には父より他人の女性)になつくものだし、実際に妊娠、授乳できるのが女性に限られている以上、出産、子育てのプロセス全てを平等に負担するというのは不可能だ。女性の社会活動が男性に比べて制限されることは、ある程度までは仕方がない。そしてそれは「制約」であるとも、「特権」であるとも言える。社会の変化によって、生きることの本質に関わらない部分が肥大したことで、それを「制約」と感じる人が増えたというだけなのではないか、と私は思っている。
 数年前、水産高校で就職を担当していた時の実感からすると、世の中の会社が、女性を避けて男性を取りたがるということはない。むしろ、「女の方が根性がある」と言って女性を欲しがる会社が多かったようにさえ思う。土木や流通など、一昔前なら「男の仕事」とされていた分野でも、である。船は、生活スペースの関係で女性を受け入れることが難しい職場だが、それとて、生活スペースが殊更に狭い漁船を別にすれば、女性を受け入れる会社は多かった。この際いっそ、ということで、女性だけで運航している貨物船などというのもあった。
 高校という場所で生徒を見ていて思うのは、男子の覇気のなさと、女子の元気さだ。もちろん、個人差は常にあって、全員がそうだというわけではないのだが、見ているだけでこちらの気力が萎えてくるようなだらっとした生徒は、女子にはほとんどいない。その上、女子の方が、何をやっても丁寧で正確だ。ははぁ、これで更に精神的にも強いとなると、会社も女子を欲しがるわけだ・・・と納得する。
 何かの弾みで、アイドルグループが出演するテレビ番組を目にすると、女性は髪であれ体の線であれ「女らしさ」を強調する方向に進み、逆に男性は「男らしさ」をそぎ落として中性化しているように思える。これはいったい何なんだろう?環境ホルモンの影響などではなく、世の中の嗜好がそれを求めていて、商業主義がその嗜好に迎合しているだけかも知れないが、男女それぞれの中に元々備わっている素質のような気もする。
 思うに、約50年前、私が少年時代には「男の子なんだからしっかりしなさい」とか「男のくせにピーピー言うな」と、性差を利用して男をけしかける言葉があった。一方で、「女の子らしくしなさい」という女性にブレーキをかけるような言葉もあった。だが、最近よく感じるように、元々女性はタフでしっかりしている一方、男は容易に軟弱化する素質を持っているとしたら、それらのような言葉は、男女の力を拮抗させるためにうまく機能していたのではないか。男女平等、ジェンダーフリーが絶対の価値観となって、性差を意識させることが悪として避けられるようになれば、女は強くなり、男は弱くなるのが自然の摂理なのではあるまいか?だからこそ、男に向かってかける言葉は「けしかける」ものであり、女に向かってかける言葉は「ブレーキ」だったわけだ。決して男尊女卑を目指していたわけではないように思える。
 出産・子育てにおいてより大きな制約が女性にあったとしても、そして、数あわせのために女性枠を設けるというアファーマティブ・アクションを発動しなくても、やがて女性はより大きな役割を果たすようになるのではないか?育て方の変化は、20~50年経ってから現象として表れる。「違い」をしっかりと見極めつつ、あせって無理なことをしない方がいいと思う。(完)