男女の違い雑感(1)

 サッカーW杯、ドイツ・コスタリカ戦で、W杯史上初めて、女性が主審を務めたことが話題になっていた。W杯には、日本からも初めて女性審判が参加している。
 日本では、国会議員や地方自治体の首長、会社役員などで女性が極端に少ないことがたびたび話題になる。確かに、海外を見れば、ニュージーランドフィンランドの首相、EUの内閣とも言うべき欧州委員会の委員長など、女性が高い地位に就いているのを見ることは珍しくない。しかし、アメリカでは女性が大統領になることについて「ガラスの天井」があると言われるし、今回のサッカー主審だって、W杯史上初ということは、今まではなかったということだから、欧米だからと言って必ずしも男女が完全に同等というわけではない。
 最近、日本では、例えば東京工大が2024年春の入試から女子枠を作って、女子学生比率の引き上げを行うとか、東大で2027年度までに300人の女性を教授・准教授として採用することを発表する、などの動きがあった。先日、大学院に在籍している某卒業生が訪ねてきた。某大学の助教のポストに応募していることを明かした上で、「採用は難しいだろう」と、妙に悲観的なことを言うから、その理由を尋ねてみれば、募集要項に「同等の業績がある場合は女性優先」と書かれているのだそうだ。
 私は、男女は平等であるべきだと思う。だが、数だけを合わせて平等が実現したと考えるのは変だ、と思う。学校の先生にしても、スポーツの審判にしても、政治家にしても、官僚や重役にしても、性別に関係なく適材適所であって欲しい。サッカーW杯の審判の場合、VAR担当なら問題ないだろうが、陸上競技を見れば、男女の体の構造差による走力の違いは明らかだから、ずいぶん無理のあるパフォーマンスだと思う。
 そもそも、男女はいろいろな点で違う。体の構造がまったく違うのだからどうしようもない。体の構造は外見にはっきり表れているし、筋力のように客観的に測定可能なものなら比較的分かりやすいが、感性や思考といった抽象的な要素においても相当に異なる。
 先日、将棋の世界で、女流棋士里見香奈5冠が棋士への編入試験を受けて3連敗し、棋士にはなれなかった、という出来事があった。将棋の思考力に男女差があるとはまったく思えない。しかし、今までのところ、女性は誰も棋士にはなれていない。
 編入試験が実施されたということは、日本将棋連盟が女性に門戸を閉ざしているわけではないということだし、棋士になるための一般的なルートである奨励会にも女性は入れる。実際、里見もかつては奨励会員だった。しかし、棋士になれる一歩手前、3段で年齢制限を迎えてしまった。男でも、そのような人はたくさんいる(→瀬川晶司に触れた記事)。彼女の生育環境において、女性であるが故のハンディキャップがあったかどうかは知らない。Wikipediaで経歴を見る限り、「女のくせに」「女なんだから」といって将棋を学ぶことを邪魔されてきたということはないのではないか?だとすれば、少なくとも将棋の思考力においては、理屈ではなく、事実として男女差があるように見える。どうしてこんなことに?と私も驚く。男女の違いは本当に分かりにくい。
 学ぶためのチャンスは完全に平等であるべきだ。その上で、差が付くことがあるとすれば、それが性差なのだから、認めるしかないと思う。男女の間に、得意不得意の違いがあることは、むしろ世界を豊かにするような気がする。それぞれがそれぞれの得意分野で能力を発揮すればよいのであり、外見的に比率を合わせることがどんなメリットをもたらすのか・・・私には分からない。