三度「ジェンダー平等」について

 昨日から夏休みに入った。この2日間、石巻は一昔前の夏を思わせるいい夏日だ。気温も30℃に届かず、ほどほどに風があり、湿度も低くて、海が水平線までくっきりと見えている。こんな夏ならずっと続いてもいいなぁ。

 女子サッカーのワールドカップ(W杯)が始まった。昨日の緒戦は、ザンビアに快勝したということで、まずはめでたい。
 ところが、このW杯をテレビの地上波で見られるかどうかが、直前まではっきりしなかった。放映権料が高すぎて、テレビ局が契約できなかったらしい。最終的には、開幕1週間前になってNHKが放送することになったようだが、これは、W杯をテレビで見られないのは困る→放映権料が高すぎるのだから仕方がない→税金みたいなお金でなんとかしろよ、ということだったと想像する。私は、そこまでして放映する必要があるのかな?日本のテレビ局が全てそっぽを向けば、主催者であるFIFAこそ困るはずなのだから、この際、困らせてやればいいのだ。需給関係で価格は決まるという素朴な経済理論に従うなら、いずれFIFAが折れて、放映権料は日本のテレビ局が払える値段まで下がるに違いない。
 なぜ放映権料が高いかという理由の部分で、不思議に思うような話を読んだ(昨日のNumber Web)。
 今回、FIFAは賞金総額を3.67倍に増やした結果、放映権料をつり上げざるを得なくなったが、そこには世界的なジェンダー平等への動きが関係しているのだという。3.67倍に増えた賞金総額は、それでも男子の4分の1らしいが、日本におけるWEリーグと男子J1の1試合当たり観客動員数は、1対10よりもやや開きが大きい。観客動員数の違いは経済効果の違いであるとすれば、男子の4分の1の賞金総額は、不当に高額だということになる。
 女子と男子の観客動員数の違いは、国によってかなり異なり、欧米は小さく、その他の地域は大きいようだ。おそらく、賞金総額が男子の4分の1というのは、欧米の観客動向を反映しているのだろう。それを放映権料の形で押しつけられたのではたまらない。
 私が驚くのは「ジェンダー平等」なる思想が入り込んでくることだ。何も差別をして女子の試合を見ないのではあるまい。どう考えても、スピードの圧倒的な違いから、男子の試合の方を面白いと感じるだけである。それでいて、観客が少ないのも、賞金総額が少ないのも、放映権料が安いのも、「ジェンダー平等」に反するから是正しろというのは暴論である。
 スポーツの人気などというものは、理念とは関係ない。見ていて面白ければ見る、面白くなければ見ない。ジェンダー平等に反するから、今年はもっとWEリーグも見に行かなくちゃ、などと考えると、ますます女子の試合は面白くない、ということになる。
 女子サッカーは不人気だから、全てのスポーツで女子は不人気かというと、決してそんなことはない。女子優位の典型はカーリングだろうか。プレーそのものの魅力なのか、選手たちの見た目や人柄の問題なのか、というあたりは少々問題があるかも知れないが、観客・視聴者には女性だってたくさんいるわけだから、男子種目にも女性から同様の目が向けられれば「あいこ」である。必ずしも不当だとは言えない。テニスやゴルフは、男子も女子も同じように見られているような気がする。
 私自身についていえば、例えばバレーボールは女子の方が好きだ。男子はコートが狭い割にスピードが速すぎる。女子のスピードをほどよいと感じる。サッカーは逆だ。コートが広いからこそ、女子の遅さがつまらないのだ。差別も何もあったものではない。
 最近、行きすぎたジェンダー平等が横行していること、しかもその「平等」はたいてい「結果の平等」であるが、本来は「機会(条件)の平等」であるべきでないのか、というようなことを書いた(→こちら)。ダメですよ。男と女は根本的に違っていて、どう違うのかさえよく分からない部分が多いのだから、何でもかんでも「同じ」でなければならないなどという発想は・・・。「同じ」であるべきは「機会(条件)」だけ、それを同じにして同じにならない部分は男女の違いとして認めるべきなのだ。「ダイバーシティ」とか「多様性の尊重」とか言う一方で、むやみに同一化を迫る社会というのは分かりにくい。
 やっぱりサッカーは男子が面白い。