実現すべきは機会の平等

 この3日ほど、少し気温は高めながら、空気がからっとしていて、まるで北欧の夏のように快適な日が続いていた。加えて満月。特に一昨日などは、海が金色に光って美しかった。今日になって少し湿度が上がり、日本の夏に近づいた。気温は20℃代の半ばなのだが・・・。
 そんな今日、午後から仙台市河北新報本社に行っていた。NIE(Newspaper in Education=教育に新聞を!)推進委員会の会議に出るためである。昨年までは、感染症対策が学校よりも厳しくて驚いていたが、今日は、すっかり制限が解除された感じだった。ノーマスクについてもおとがめがなく、入り口に消毒液が用意されているということもない。出席者は、小中の校長を中心として40人ほど。コロナ前に戻ったな、と実感した。
 形式的な総会の後、「研修会」と称して、朝日新聞社仙台総局長・岡本峰子氏による講演が行われた。演題は「女性たちの連帯で広がるジェンダー報道~記者たちの挑戦」。朝日新聞社内部でのジェンダー平等運動を中心に、日本におけるジェンダー平等の実態とそれを実現させるための取り組みについて話された。
 朝日新聞社では、2020年に「ジェンダー平等宣言」を発表し、数値目標を立てることで社内のジェンダー平等化を推進、しかも、その状況を毎年5月初旬に特集記事の形で公表してきたそうだ。目標とは、例えば次のようなものである。

・「ひと」欄で取り上げる人は、男女どちらも40%を下回らないようにする。
朝日新聞社主催の主要なシンポジウムで、登壇者は男女どちらも40%を下回らないようにする。
・女性管理職を、現状の12%から倍増させる。

 資料として配られた今年5月4日の大きな検証記事によれば、「ひと」欄に登場する女性は、宣言発表前の2019年が28.4%だったのに対し、昨年度は45.8%にまで上昇し、ほぼ男女同数が実現した。一方、女性管理職は微増の13.5%で、目標の達成にはほど遠い、などなど・・・。
 う~ん、聞いていてやはりもやもやする。その理由は、男女はまったく同じであるという前提に立っているように聞こえることだ。男女にはいろいろな違いがある。本当に様々な場面で数をイコールにすることがいいのかどうかなんて全然分からない。私は昨年末、男女がどのように違うかについて一文を書いたことがある(→こちら。2回連載)。
 さほど立派な結論があるわけではなく、むしろ「分からない」が結論だと言った方がいい文章だ。仕方がない。本当に男女の違いは分かりにくいのだから。そしてその違いこそが世の中を豊かで楽しいものにしていると思うし、文明によって人間が自然から離れ、人間の生き物としての本質に関わらない部分が肥大した結果、出産や子育てが軽視されるようになって、女性の社会進出がクローズアップされ、ジェンダー平等という主張も強くなったのではないか、と思っている。
 機会(条件)の平等は保障されるべきだ。しかし、それが実現してなお結果の平等が実現しないとすれば、それは男女の本質的な違いによるものなのだから、無理に数合わせをするべきではない。私なんかはそう考える。朝日新聞社を始め、世の中で実現されるべきだと考えられている「平等」は、すべて結果の平等だ。
 男と女の違いについての科学的な議論が一切ない状態で、結果の平等を目指して数合わせをすれば、適材適所が実現せず、誰にとっても不幸な世の中が生まれかねない。今日の講演でも、残念ながら全ての前提となる「男と女の違い」に触れられることはなく、アンバランスな数字は直ちに「悪」という前提で、対策が進められていた。
 ただ一つ、冒頭で映し出されたフィンランドの連立政権における党首たちの集合写真(全員女性)や、カナダの閣僚たちの写真(半分強が女性)には考えさせられた。なぜ、それらの国ではそのような男女比になり、それでいて日本ほど出生率が下がってはいないのだろう?ここは少し考えてみなくてはならない、と思った(←そのうち書きます)。
 講演の後、高校部で係分担などの話をして、お開きとなった。新聞社の冷房がけっこうきつかったからだろう。外に出ると、来た時よりも空気がべったりと重くなったように感じた。