「絶弦」の体験

 紀元前200年頃にまとめられた『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』という本に、琴の名手・伯牙(はくが)と鐘子期(しょうしき)の友情物語が描かれている。夏休み直前、2年生の「言語文化」という授業で、それを勉強した。ごく簡単に内容を書いておくと、次の通りである。

「伯牙が高い山のことを思い浮かべながら琴を弾くと、鐘子期はその音を聴いて高い山のようだと言い、伯牙が流れる水を思い浮かべながら琴を弾くと、鐘子期はその音を聴いて流れる水のようだと言った(伯牙の心の中を言い当てた)。鐘子期が死ぬと、伯牙は琴を壊してしまい、二度と演奏しなかった。琴を弾いて聴かせるに値する人がいなくなったからである。」

 この文章からは、二つの熟語が生まれた。一つは「知音(ちいん)」である。「音を聞いただけで心の中が分かる、それほど深く理解し合った友人のこと」だ。これは問題がない。
 もう一つは「絶弦」である。「弦を絶つ」。親友の死に際して、伯牙が琴はもう弾かないと言って弦を切ってしまったことだが、熟語の意味については説が分かれる。辞書の類いには、「知己(親友)と死別すること」または「慣れ親しんだものや行為と決別すること」と、大きく分けて二つの意味が書かれている。どの辞書でも、日本語の中でどのように使われてきたかという用例が載っていないので、どちらが正しいのか、またはどちらも正しいのか、よく分からない。『呂氏春秋』の本文から直接に読み取れば、どちらの意味に解することも可能だ。
 すると、例えば私が酒断ちをするなどといった場合は、「絶弦」と表現することができるわけだが、その場合、「酒断ち」と言えばいいだけの話で、わざわざ「絶弦」を使って表現することが必要な状況は想定できない。ただ、「酒断ちは私にとっての絶弦体験だ」というような使い方ならできるだろう。
 実は、決着を付けられない「絶弦」の二つの意味について考察することが、本文の目的ではない。「絶弦」に関する上のような話を少ししたところ、生徒が「先生は絶弦したことがありますか?」と質問したので、「絶弦」を「慣れ親しんだもの・行為と決別すること」と理解することが正しいとしたら・・・と断った上で、次のような話をした。

「私はね、小学校時代の5~6年生の頃、魚釣り少年だったんだよ。狂っていた、と言っていいほどだった。学校が終わると、週に2~3日は釣り竿を持って、家の近くにあった沼に行ってフナを釣っていたんだ。ある時、日曜日に少し遠出をして、ハゼ釣りに行った。みんなも知っていると思うけど、ハゼっていう魚は、釣られる時にあまり暴れないよね。しかも、よく針を飲み込んでしまう。ハゼ釣りに行ったのは初めてじゃないのに、どうしてその時、そんな気持ちになったか分からないんだけど、ハゼが釣れた時、いつものように、バタバタ暴れるわけでもなく、すーっと上がってきた。あの大きな口をぽかんと開けて、多少はピクピク動いたりしていただろうけど、ほとんど静かに、糸を引かれるままに上がってきたんだ。その時私は、ハゼの目からぽろぽろと涙がこぼれているみたいに見えちゃったんですよ(生徒笑)。本当だよ。バタバタ暴れていたら、『こんちくしょう』とか思って、そんな気にはならなかったかも知れない。そして、あぁ、俺はなんて残酷なことをしてるんだろう、って思っちゃったんだな。その時を最後に、私はこの年になるまで一度も釣りには行っていない。自分の子どもに『釣りをしてみたい』って言われた時にも連れて行けなかった。もしかすると、これなんかは『絶弦』って言ってもいいのかも知れないね。」

 これは「絶弦」というより、「宗教的回心」と言うのがふさわしいようにも思う。お粗末でした。