「広い」と「正しい」

(2月28日付け「担任のお話」№36より②)


【電車が止まった!→学校に来る?or 来ない?】

 木曜日に予定されていた考査が今週にずれ込んだのは誤算だった。たった10㎝余りの雪でも、電車が止まると高校は厳しい。朝8時の時点では、来た人だけ考査を実施し、交通機関の事情で来られなかった人は追試、という話だった。なにしろ、来られない人が全校の半分近くにもなる可能性があったので、追試は考査問題も作り直せ、などと言われたら困るな(問題を作り直すこと自体が大変な作業だが、難易度をそろえることは、不可能に近いほど困難)と思っていたので、それがなくて本当に助かった。
 諸君からは「決定が遅い!」とずいぶん文句を言われた。確かにその通りなのだが、配信されたメールを読み直してみて欲しい。「公共交通機関の事情で登校できない時」は、「焦らずに」「公認遅刻(欠席)にする」と書いてある。車で送ってもらう必要なんかないのだ。したがって、送ってもらってまで来ようとした気持ちは評価するが、「せっかく送ってもらって来たのに・・・」という文句は不当だ。
 少なくとも学校では、入試も含めて、公共交通機関の遅れや運休による遅刻、欠席は容認される。石巻や蛇田、あといった徒歩で30分か1時間くらいの範囲なら歩いて来るべきだが、そうでなければ仕方がないとあきらめてよい。一方、送迎による遅れは、普通は「遅刻」だ。それが社会常識というものだろう(おそらく)。
(余談・・・個人的見解)
 私は日頃から、送迎に非常に冷たい。「地球沸騰化の時代」(国連事務総長)に、高校生の送迎なんて(住んでいるところにもよるが)最も無駄な石油の使い方だ、とも思うし、元々雪の日は渋滞しがちなのに、高校生を送迎する車が増えて(全員が送迎されると石工だけで約500台の車が走る)渋滞が更にひどくなれば、本当に走る必要のある車(緊急車両や物流関係など)が走れなくなる、という問題もある。つまり、「いま学校に行かなくちゃ」とだけ考えれば、親に送ってもらって登校するのは立派な判断だが、それ以外の要素を考えると、決して正しい選択とは言えない。
 4月のオリエンテーションで、私は「時間的にも空間的にも広い範囲が見えないと正しい判断はできない。だから、遠くを見られるようにするために勉強するのだ」というお話をした。具体的な事例に則して言えばこういうことなのだよ。


裏面左:2月8日付け朝日新聞より「未来ノート 203Xの君へ」欄、「サッカー日本代表GK 鈴木彩艶(1)」を貼り付け。見出しは「自ら洗濯 送迎なし 高学年で『自立』」
平居コメント:一流はこうして育つ。
裏面右:2月16日の「天声人語」と2月17日の「余録」を貼り付け。
平居コメント:最近、時々「マルハラ(丸ハラスメント)」というのが話題になるからだろうか?朝日と毎日のコラムが、わずか1日違いで「。(句点)」の問題を取り上げていた。思えば、諸君の作文で「。」のない文を目にすることは珍しくない。今年だけで、一体何回注意したことだろう?「。」をつけない諸君に、果たしてこれらのコラムで言われているような「あると冷たい」意識があるのかどうか・・・(どうなんですか?ちなみに、私は「。」がないと中途半端な感じがして落ち着かない)。確かに、基本的に活用語が文末に来る日本語では、たいていの場合、終止形の存在によって「。」がなくてもどこで文が終わっているかは分かる。しかし、表記は社会的ルールであり、まずは守る必要があるだろう。ただし、言葉と同様、表記も時代と共に変化する。もしかすると、「。」なしが当たり前という時代が(再び)来るかもしれない。その時はその時・・・。