平居の蔵書

 時々雪が降るので、おそらく山道の状態がよくないだろうと想像されることもあって、しばらく牧山に走りに行っていない。先々週の日曜日をピークに、その後は再び冬になったかのように寒い。水も冷たくなってきたような気がする。
 今日の午後は、調べたいことがあって市立図書館に行った。入り口付近にある梅の木に花が咲いていた。あぁ、やっぱり春なんだ、と思った。


 昨日の午後は、我が家に古本屋の主人が来ていた。必ずしも、本を買い取ってもらおうとかいうのではなく、ちょっとした用事があったのだが、せっかくなので、私が死んだ時に私の蔵書をまとめて引き取ってもらえるかどうかを尋ねてみた。
 30分余りかけて私の蔵書を点検した後、主人は次のように言った。

「いやぁ、なかなかいいですね。私も時々学校の先生から声がかかって、本を見に行くのですが、どうにも売り物にならないような教育書ばかり多くて困るんですよ。平居さんのところにはいわゆる教育書がほとんどありません。教育書に限らず、そもそも、引き取った後で、売り物にならないから捨てなければならないような本がとても少ない。これはいいですよ。」

 ふふふ。他の先生の書架には教育書がたくさんあって、私の所にはほとんどない、ということは、いかにも他の先生は「教育」について真面目に勉強しているのに、私はそうではない、という感じだ。
 確かにそうなのだ。しかし、蔵書の量に関しては、他の人より多いということはあっても、少ないということはない。単に教育書がないというだけである。日本文学、中国思想、中国史、地理(紀行、登山、旅行ガイド含む)、科学、音楽などに関する本ならわんさかある。
 私は、自分の教員としての資質を高めるためには何を勉強すればいいか、などということはあまり考えない。しかし、何でもかんでも手当たり次第に勉強しておけば、それが意識してもしなくても奥深い優れた授業を生み出すことになるのではないか、とはなんとなく思っている。教育実践というのは教員の個性を通して生み出されるものだから、私は方法論を書いたような教育書が役に立つとはあまり思っていない。教師だからといって、教育書を読めば優れた教師になれる、というものではあるまい。
 主人は、私が高校の国語の教員であることを知っている。そのことを知らない人に書架を見せて、私が何者かを推測してもらえば面白いかもしれないなぁ、何と答えるかなぁ。そんないたずら心が生じてきた。
 残念ながら、私が稀覯本だと認めるような書物でも、どこかの図書館で引き取ってもらえる可能性は非常に低い。大学あたりを通して、欲しいという学生にあげてしまうのが一番いい。しかし、私の蔵書の多くは古びていて、書き込みも多い。それでも欲しいというほど、入手の難しい本がたくさんあるかといえば、それは???だ。
 そんな私の蔵書でも、古本屋はけっこう喜んで引き取ってくれそうだということが分かったのはよかった。ついでに言えば、古書店経営の裏話のようなことをあれこれ聞かせてもらったのも楽しかった。
 少し寒かったが、静かで落ち着いたいい土曜の午後であった。