規則の自己目的化

 今日、我が家でウグイスが鳴いた。昨年は4日、一昨年は12日だったから、決して早くない。そう言えば、天気予報で、今年は1月よりも3月の方が平均気温が低い、とか言っていた。初鳴きが遅めだったのは、そんなことも影響しているのだろう。ただし、今日私が聞いた鳴き声は、既にしっかり「ホーホケキョ」だったから、私が気付いたのが今日だった、というだけで、数日前から鳴いていたのかもしれない。
(注:ウグイスの鳴き始めは非常に拙くて、なかなかホーホケキョにはならない。)

 そんな今日は、公立高校の合格発表日であった。入試担当の諸先生の前では恥ずかしくて言えないけれど、私でも本当に疲れた。昨年より受検生が60人くらい少なくなった、ということは、答案も60枚減ったということで、それはかなりの負担減であるはずなのだが、そんなことは意識できなかった。採点の3日間は、本当に疲労困憊。
 どこかの学校で採点ミスが発見されるたびに、県の管理監督が厳しくなるというのが、疲労困憊の元凶なのだが、単に管理監督が厳しいというだけではなく、心の中に「なんでこんなにミスのない採点を求められなければならないのだろう?」という疑問というか、不満があるから余計に疲れるのだ。
 と書けば、「採点ミスを防ぐなんて当たり前だろ?やっぱり高校教師平居某はケシカラン」と言われることだろう。だが、なにしろ0.84倍である。不合格者をそうそう出せるわけもない。大半の答案は、実質的に合否判定の材料にならないのである。にもかかわらず、採点はすべての答案で「完全ミスなし」が求められる。そこに徒労感が生まれる。
 通常の定期考査と同じように1人で採点し、序列をつけ、合否判定でもめそうな数人、もしくは十数人だけ、複数の教員で厳密に採点すればいいのだ。入試は、あくまでも合否を判定するための手段である。しかし、今の採点は、「正確に採点する」ことが、合否判定という本来の目的を離れて、自己目的化してしまっている。
 思えば、最近の学校では、毎月「コンプライアンス・チェックシート」というものを書かされる。20ほどのチェック項目に沿って、直近の1ヶ月間に服務規律に違反する行為がなかったかどうか申告する、というものである。他にも、コンプライアンスという言葉を聞く機会は多い。
 規則を守ることは必要かもしれないが、規則さえ守っていればいい教育が出来るわけではなく、破っても困らない規則や、規則を破っても困らない状況というのはいくらでもある。しかし、まずは完全に規則を守ることが求められ、それによって融通の利かない、面倒で窮屈な学校が生まれている。(社会も同じ。)
 どうして、このような本末転倒みたいなことをわざわざ行うのだろう?それはおそらく、規則を守るということが、分かりやすいからか、お上(管理者)にとって好都合であるからだろう。学校の中にはどうしたらいいか分からない、つまり答えの見えない問題がたくさんある。それに対して、規則ははっきり目に見える。守れば、「よし、出来た」という充実感に浸れる。守らなければ、ほころびがとても目立つ。それは不愉快だ。・・・まぁ、そんなところであろう。
 膨大な労力と時間とを失っていると思う。少しのことですぐに大騒ぎをするマスコミも悪いのだけれど、たいていは、偉い人が事情を説明し、「たいしたことではない」と突っぱねれば済む問題である。目的との関係で合理性を追求する。それは、目的集団を運営する上での極めて基本的な姿勢であるように思われる。あぁ、疲れた。