明延鉱山と明神電車(2)

 神子畑(みこばた)には、選鉱場跡の他、生野銀山で鉱山開発の指導をした外国人技師ムーセの居館で、神子畑に移築されて事務所・診療所となった建物、小学校の体育館、明神電車の車輌などが遺されている。「神選」と名付けられた資料館兼売店のような建物もある。ごった返している、ということはないが、入れ替わり立ち替わり常時十数人が見物に来ている感じだ。
 ぼんやりと眺めているだけでは、どのような場所なのかよく分からないが、ムーセ旧居の中で25分ほどのビデオを上映していて、それを見ると、鉱石を「選鉱」「精錬」してインゴットにするまでの工程がよく分かる。
 明延(あけのべ)鉱山から採れる鉱石は、産出量日本一の錫を始め、銅、亜鉛タングステンなどの鉱物を含む。それらの比重や融点の違いを利用しながら、普通の岩石と何が違うのかよく分からないような石の塊から、ピカピカのインゴットを作り出していく様は興味深い(全工程が神子畑で行われていたわけではない)。なるほど、山の急斜面に選鉱場を作ったのは、鉱石を破砕しては水を混ぜ、それを落としながら性質の違う物質を選り分けていくために合理的だったからだ。
 重力を利用しているとは言え、掘るのはもとより、砕くにしても混ぜるにしても、膨大な電力を消費していたことが見ていてよく分かる。やはり、地面から何かを掘り出して利用するというのは、かなり自然に逆らう作業だ。
 明神電車は、明延の「明」と神子畑の「神」による命名である。私は「みょうじん」と読むものだとばかり思っていたが、ムーセ旧居のビデオでは「めいしん」と発音していた(明延の保存車輌脇の看板のふりがなも同様)。軌間762㎜の、いわゆる軽便鉄道である。鉱内のトロッコは更に狭い500㎜だったらしい。神選で、明神電車の絵はがきと明延鉱山の記録ビデオを買ったら、1円電車の切符(複製)をくれた。小さく簡素だが、しっかりした硬券である。
 保存車輌として展示されているのは、小さな電気機関車と「わかば」と名付けられた客車、鉱石を積んだ鉱車である。「触れないで下さい」などという無粋な掲示はなく、客車には入ることも出来る。狭いには狭いが、20人くらいは乗れそうだ。選鉱場脇のインクライン(ケーブルカー)で数十m上ったところに駅はあったようだ。もっとも、駅とは言っても、客車に乗り降りする場所というだけで、ホームがあったわけではない。そんなものは必要ないほど低くて小さな車輌なのである。
 展示車両の横に、「明神電車利用について」という注意書きの看板と時刻表が立っている。当時のもののようだ。驚いたことに、その「乗車資格」という項には、「従業員と関係者」「従業員の家族」に次ぐ3番目として「当所の許可を得た人」とあって、そのすぐ後ろに「許可を希望する方は乗車券交付窓口に申し出て下さい」と書かれている。しかも、「乗車券の交付」という項には、「社外者 1回10円」と料金まで書いてある。ということは、事前の申請といった面倒なことはしなくても、乗車希望と申し出、10円を払えば、誰でも乗れたということではないのか?これはびっくりだ。私が役場から受け取ったハガキと異なり、明神電車は鉱山関係者以外も利用できたのだ。なお、関係者の1円、社外者の10円というのは、「文化会育成基金」としての「謝礼」だと書いてある。「寄付」「カンパ」ではなく、「謝礼」だというのは、日本語としてとても違和感がある。正規の営業鉄道ではないため、取っているのは「運賃」ではないという点に意味があるのだろう。
 ついでなので、竹田城を飛ばして、鉱山に関する話を続けよう。
 明神電車の路線は約6㎞。うち4㎞はトンネルだ。所要時間は25分。既に電車を利用できない今は、車で和田山方面を経由して明延に行くしかないのだが、その距離は約60㎞。電車の10倍。これほど効果的なトンネルというのは、そうあるものではない。
 明延にも保存車輌が展示されている。明神電車唯一のボギー客車「くろがね」は、1両のバッテリー式電気機関車と共に動態保存されていて、明延振興館という建物の前に敷設された1周70mの軌道を走れるようにしてある。いつ運転されるのかは知らない。神選のおばさんが、「1円ではなく300円だ」と言っていた。
 明延では、振興館の前と学習館の前にそれぞれ1両ずつ、「しろがね」「あかがね」という小さな電車(電動客車)が保存されている。他にも、電気機関車やら鉱車やらが並んでいる。
 明延には、今でも人が住んではいるが、閑散としていて、活気どころか、人の気配すらほとんど感じられない。協和会館(催し物会場)、第1浴場、鉱山の中心地(大仙粗砕場)など、遺構は多い。当時はこの狭い谷間に4000人以上が住んでいた。1150人収容のホール=協和会館では、頻繁に映画の上映や有名な歌手の公演が行われ、購買ではあらゆるものが割安に購入でき、家賃も安く、公衆浴場も水道も無料。病院やスポーツ施設も充実していたなど、手厚い福利厚生の元で繁栄していたという。昨日、今回の旅行の発端として紹介した朝日新聞記事には、そんな豊かで賑やかな鉱山城下町の様子が描かれている。「おヤマは天国」なわけだ。
 神子畑にしても明延にしても、保存車輌に屋根はかけてあるものの、傷みは激しい。それらは元鉱山都市の衰退を象徴しているのだ。永遠なるものはこの世に存在せず、全ては死に、朽ち果ててゆく。観光資源として価値を持つうちは保存もいいが、どこかで見切りを付ける潔さは必要である。寂しいが、仕方がない。