明延鉱山と明神電車(1)

 翌30日(土)は、レンタカーを借りて県北を回る一日だった。何しろ、切符を「レール&レンタカー」という企画もので買うと、乗車券が2割引、特急券(ただし「のぞみ」には乗れない)が1割引になるので、2人で1000㎞以上離れたところまで行くと、JR券の割引分だけで軽自動車のレンタカー代+ガソリン代が捻出できる、つまりは「交通費ただ」で、なおかつ広範囲を自由に動き回れる1日が発生するのである。
 元々は、息子も一緒に動く予定だったのだが、初日に姫路城に行けなかったため、私1人が県北へ、息子は姫路城と書写山へ、ということになった。これも東北新幹線遅延のとばっちり。
 先日、1月来、市図書館で昔の朝日新聞をせっせと読んでいるということ、目的とは無関係の記事も目に入ってきて、しばしば立ち止まってしまうことなどを書いた(→こちら)。そんな「目に入ってきた」記事の一つに、明神電車に関するものがあった。1960年8月3日「新日本奇談」欄で、見出しは「おヤマは天国 電車賃たった一円 天然の冷房・近代施設」という記事である。7段組の比較的大きな記事で、ど真ん中に電車の写真が印刷されている。これを読んで、「あぁ、そう言えばこんな電車が走っていて、乗りに行こうと思ったことがあったっけ、鉱山も閉鎖されて、その後はどうなっているのかなぁ?」という好奇心が、ムラムラと湧き起こった。
 明神電車とは、兵庫県北部、大屋町(現・養父=やぶ市)にあった明延(あけのべ)鉱山から掘り出した鉱石などを運搬するために作られた軌道である。多少の旅客輸送もしていて、それが運賃1円だったので、「1円電車」として有名になった。
 幼い頃から鉄道が大好きだった私は、当然、その存在を知っていて、いよいよ乗りに行こうと思ったのは、龍野に住んでいた高校時代だ。しかし、この鉄道は時刻表に載っていない。そこで、大屋町だったか、鉱石の輸送先(電車の東端)であった朝来(あさご)町だったかに、往復ハガキで問い合わせた。ダイレクトメール以外の郵便物をほとんど保存している私は、もしかするとそのハガキを、今でも持っているかも知れないが、とても探し出すことはできない。回答の内容ははっきり憶えている。「この電車は、鉱山の従業員と家族のためのものなので、一般の人は乗れません」というものだった。私は、交通不便で車でなければ行くことが困難な場所だったこともあって、見物も含めてあきらめた。
 今回、明延鉱山や明神電車についてネットで調べてみると、坑道の一部がいわば観光用として解放されていることはよくある話としても、電車の東端であった朝来町の神子畑(みこばた)には巨大な選鉱場の跡(一部は建物も)が遺されていて、昨今の廃墟ブームや、文化庁による日本遺産「播但貫く、銀の道 鉱石の道~資源大国日本の記憶をたどる73㎞の轍」指定などによって、相当数の観光客を集めているらしいことが分かった。私は決して廃墟マニアではないが、母の実家(京都府綾部市)に行くため、年に1度くらいその下を通りながら見たこともなかった竹田城も含めて、一度訪ねてみたいと思うようになった。

3月30日(土)
姫路8:10==神子畑鋳鉄橋==神子畑選鉱場跡==立雲峡==大屋市場==明延==波賀町(伊和神社)==書写山円教寺(ロープウェイ+徒歩で奥の院まで往復)==18:00姫路

 姫路から朝来までは播但道路という高速道路を利用したのだが、この入り口が分かりにくい。山陽道播但道路、あるいはその両方の看板が後から後から出てくるので、どこから入ればいいのかが分からないのだ。右往左往の末、反対車線に入ってしまって引き返すなどしながら、ようやく10時に神子畑に着いた。すばらしい春の陽気だ。(続く)