龍野の感傷

 3月29日から昨日まで、息子と2人で関西に行っていた。目的が山のようにあって、超高密度、体力的にも過酷な5日間だったが、それは言い方を変えれば充実していた、ということでもある。少しだけ、記録として残しておこう。
 本当は1人で行くつもりだったのだが、中学校を卒業したばかりの息子が、今月下旬から海外の高校に行くことになっているものだから、日本の歴史的文物を見せておこうかと連れて行くことにした。昨年、やはりこの時期に関西(京都・奈良)に連れて行った(→その時の記事)娘は、今やマレーシアで大学生をしている。

3月29日(金)
石巻6:37―(快速)―7:35仙台6:51―(やまびこ206号)―12時頃 東京12:03―(ひかり511号)―15:33姫路15:51――16:14本竜野19:32――19:52姫路

 前夜から、石巻は暴風雨と言ってよいほどの天気になった。夜中、すさまじい風雨の音を聞きながら、仙石東北ライン(快速)が止まるのではなかろうか?と心配していた。ところが、安全優先のあまり、近頃とても弱気なJRが遅れることなく動いていた。やれやれ、これで安心、と思っていたら、意外にも東北新幹線が不調であった。風雨の影響ではなく、栃木県内で停電が発生したためだという。そのため、当初は7:46の「やまびこ124号」に乗る予定だったのに、遅れた6:51の「206号」に乗った。仙台を出たのは9時過ぎである。その後は快調に走ったものの、東京駅のホームが飽和しているとかで、上野駅直前から止まっている時間ばかりが長くなり、結局約3時間遅れで東京に着いた。特急料金払い戻しというのは、高校か大学の頃に東海道新幹線で一度経験したことがあるだけである。2人分で8000円以上の払い戻しはありがたかったが、何しろ過密スケジュールの旅行なので、2時間以上の時間を失ったことの方が痛かったような気がする。
 元々は、6年ぶりで高校時代の恩師(1年生の時の担任)のお見舞いに行くつもりだった(→6年前の記事)。本当によくかわいがってもらった先生なのだが、パーキンソン病を患い、病状は悪化の一途であった。奥様を早く亡くされ、同居している息子さんはろうあ者である。身体の自由がきかなくなってくると、生活は成り立たない。2~3年前から姫路市内の施設に入られ、その後、年賀状が絶えた。
 私は一方的に年賀状を出し、今年の年賀状には「春に伺います」と書いた。書いた以上は行かなければ・・・というわけである。ところが、出発の10日ほど前に、先生が入所されているはずの施設に電話をしたところ、先生は既に退所された、とのことだった。おそらく、退所と言うよりは転所なのだろうが、ではどこに転所されたかということについては、「個人情報」だと言って教えてくれない。無理を承知で、自宅に4度ばかりお電話差し上げたが、予想通り誰も出ない。お手紙のやりとりをするだけの時間的余裕があれば、ろうあ者の息子さんでも対応してくれたのかもしれないが、私の行動が遅かったために、それも出来なかった。
 というわけで、当初の第1目的はご破算となり、旅行1日目は急遽、3日目に予定していた「龍野ノスタルジックツアー」に変更である。
 言うまでもなく(?)、龍野は私が高校を出た町だ。山陽の小京都、「男はつらいよ」第17作(マドンナ:太地喜和子)ロケ地として有名で、信じられないほど時間の止まった古めかしい町である。年齢のせいなのか、この町を懐かしいと思う気持ちは年々強い。いや、おそらく、懐かしいのは龍野ではなく自分の高校時代なのだろうが、その舞台が龍野であったことは重要である。この町の古めかしさと落ち着きは、自分の過ぎ去った高校時代への感傷を強め、またその感傷が龍野の町を魅力的に見せるという意味で、相互依存、相互強調の関係にあるからだ。
 当初、私と別行動で姫路城に行くと言っていた息子も、姫路城は16時までしか入場できないから、今日はパパと龍野に行く、と言って一緒に来た。
 おそらく、20歳以降で初めて(私が20歳の時に両親が引っ越して帰省先が龍野でなくなったから)姫新線に乗って本竜野駅で下りた。古めかしい木造駅舎が、モダンな橋上駅に変わっていたのは残念だった。日没に追われるように旧市街を歩き回り、母校・龍野高校に行き、駅に戻った。嘴崎屋、吾妻堂、万年堂といった古いお菓子屋さんが営業していたのは嬉しかった。母の好物である吾妻堂のようかんを買う。最も驚いたのは、伏見屋商店という旧市街の書店が営業していたことである。全国的にリアル書店の廃業が相次ぐ中、こんな小さな町の旧市街で、50年前と同じ目立たない昔ながらの商家で営業が続いているというのは、ほとんど「現代の奇跡」である。
 また、事前にネットであれこれ情報を探していて、ペリーヌという喫茶店が今でも営業していることを知ったのも驚きだった。高校時代、1~2ヶ月に一度、その喫茶店に友人と行くのが、純情だった田舎の高校生にとってほとんど唯一の冒険であり、ぜいたくだった。息子に、ペリーヌで晩ご飯を食べよう、と言っていたのだが、残念ながら、6時半頃たどり着いた時には、既に閉まっていた。場所がほんの少しだけ変わり、喫茶店と言うよりは洋食屋になった感じだった。経営者が同じなのかどうか、コーヒーの味が変わっていないのかどうか・・・それを確かめることは出来なかった。
 息子は、龍野の町の想像をはるかに超えた古めかしさに驚いていた。だが、それは決してマイナスの感情ではなかったようだ。新幹線が時間通り動いていたら、私が龍野を訪ねている間に息子は姫路城に行き、龍野は知らないままだったはずだ。新幹線の遅延は幸いした、と言うべきだろう。(続く)