(史話)工業高校を増設せよ

 日曜日に、市立図書館に行ったということを書いた。元々、私は図書館という場所をあまり使わない。私が必要とするような本を、たいていの図書館は置いていないし、本は手元にあって書き込みが出来ないと、何かを書いたり話したりする時の資料として機能しないという事情があるからだ。
 ところが、この1ヶ月ほど石巻の市立図書館にはよく行く。1958年以降の朝日新聞をひたすら読んでいるのである。市立図書館には紙の新聞が、いつからの分かは確認していないが、1ヶ月分毎に綴じた状態で保管されている。
 隅から隅まで目を通すわけではない。自分の問題意識に従って、見出しを見ながら、必要な記事を探し出していくという作業で、ものすごい勢いでページをめくっていく。だから、行き始めた時には、半日で1年分くらい目を通せるだろう、数回行けば10年分は目を通せるはずだ、と思っていたのだが、実際には半日で半年分が関の山である。既に1ヶ月以上経つが、行けた回数が限られていることもあって、哀しいことに、わずか4年半分しか進んでいない。
 もったいぶっていないで言ってしまうと、国交回復前に、日本の一般紙で中国の国内事情がどの程度正確に、どれくらいの時差をもって、どれくらい詳しく報道されていたかというのが調査の内容なのであるが、どうしても、それとは無関係な様々な記事が目に入ってくる。できるだけ、それらは無視するように努めてはいるものの、なにしろ新聞の最大の利点は俯瞰性、一覧性である。まったく見ないというのは不可能だ。それで、どうしても気になる記事については、ほんのわずかな時間立ち止まって、サッと目を通す。
 そんな記事の中に、工業高校増設に関するものがあった。例えば、昭和35年(1960年)11月12日の記事では、時の文部相(現文科相)荒木万寿夫氏が、「学校教育を所得倍増計画に合わせるための計画」として、次のようなことを語ったとしている。

所得倍増計画のためには、科学技術者の養成が急務だ。このため農村地帯にも工業高校を設置したり、農業高校を工業高校にする計画だ。普通高校を工業高校に転換することも考えており、いま都道府県を通じて具体的な計画立案のための資料を集めている。一部は36年度からスタートさせる考えで、38年には軌道に乗せる。」

 翌昭和36年1月25日の同紙社説「工業高校と教員の問題」によれば、文部省は工業高校の定員を7年間で85000人増やすつもりだという。そして、昭和38年度に全国で28の公立工業高校、20の私立工業高校を開校させるべく、36年度予算で金銭的な措置を講じる予定であるとしている。
 そんな状況下で、社説は工業科の教員が本当に確保できるのかという危惧を示す。そして、全国9大学に3年間の「工業教員臨時養成所」を設けるという計画に、社説は、3年間で本当に生徒を指導できる教員が育つのか?教師間の格差を複雑にしないか?その養成所を出た者が本当に教職に就くか?といった不安を示した上で、「大学で工業課程の教員免状をとっても、ほとんどが民間産業に流れてしまうのが現状である」と指摘する。
 高度経済成長の絶頂期、東京オリンピック東海道新幹線の開業を目前にし、「所得倍増計画」の下、活気に満ちた浮き立つような雰囲気の日本社会において、工業系の人材は正に引く手あまただったのだ。
 現在、私が勤務している石巻工業高校は、昭和37年の創立(県議会で校名と開講日が可決した年)なので、昨年度が60周年であった。創立10年目から10年毎に作っている校史を見てみても、上のような文科相の談話、あるいは国の方針に関する記述は見つけられない。昭和35年12月に市議会で、県に対して石巻への県立工業高校設置の請願を行うことを可決し、36年3月に県に請願を出したということが、校史の始まりとして書かれているばかりだ。その請願は受け入れられ、驚くべきことに、昭和37年10月から第一期工事を開始、翌春には第1回生を受け入れている。ほとんど神業と言っていいほどのスピードだ。そしてそれは、国策があったからこそ実現したことである。石巻工業高校は、昭和38年に開校させるとした公立28校に含まれたということだ。校史は、遅くとも昭和35年の文部相談話から書き始められなければならない。
 昭和30年代の新聞の活字は、信じがたいほど小さい。おそらく7ポイントくらいだ。その小さな文字から、活力に満ちた当時の社会がリアルに見えてくる。やはり生の資料は面白い。