自然と人間



 『自然と人間』というタイトルの村上陽一郎氏の文章を「現代文」の授業で扱い、この文章は1991年当時としては、なかなか新鮮な問題提起を含む文章だった、などと説明したことに、軽い後悔を感じている。

 思えば、環境問題は、それをひとつの「知識」と考えれば、実にありふれた平凡なものになってしまっているが、それが解決へ向けて一歩なりとも前進したかと聞かれれば、全くそうとは言えず、むしろ、この15年間、状況の悪化を為す術もなく見守ってきた、若しくは加速させてきたというのが実情であろう。

 先々週末(9月9〜10日)、我が家に友人が二家族やって来て泊っていった。私にはちょっとしたカルチャーショックだったのだが、廊下へ行けば電灯を付けて、戻って来る時にはつけっ放し、風呂場も然り、部屋も然り。学校の教室等に照明がつけっ放しになっている日常の光景を思い出しては、これが世間一般の感覚なのだろうか、と恐れ入った次第である。

 私が恐ろしいと思うのは、にもかかわらず、「環境問題」と聞けば「ああ、環境問題ね」と思うことである。漱石の作品などほとんど読んだこともなく、従って漱石についてほとんど何も知らない人が、「なんだ漱石か」と思い、ゴッホの絵に感動したこともないのに「ああ、ゴッホか」と思うのとよく似ている。何かしらの取り組みに結びつき、それが結果を出さなければ、環境問題など決して知っていることにも分かったことにもならないのに、余りにも繰り返し耳にし、知識として持っていると、危機感を持たないどころか、むしろうんざりしてしまうという性質を人間は持っているように思う。これなら、かえって知らない方が、たとえ好奇心からであっても、きちんと向き合おうとするだけましである。

 人間がこの200年、いや20年で破壊した地球の環境というのは、地球が数十億年かかって作ってきたものだ。石油ひとつとっても、大量の生物の遺骸が数億年の堆積を経て出来るという。その1リットルを、一人の人間が1tの鉄の塊と共に10km移動するだけで消費するなどということが許されるとは、私には思えない。環境問題の克服というのは、生かされて在る自分たちの卑小さの自覚と、地球(自然)に対する謙虚さとか感謝という原点の上に立って初めて可能になるものだ、と思う。