心の変調・悩みについて

(2021年1月13日付け「学年だより№76」より②)


「心」特集・・・心の変調や悩みについて考える

 ビジネス科でも普通科でも、現代文の授業で夏目漱石の「こころ」を読んでいる。が、今日の話題はそれとは全く関係がない(笑)。
 12月に塩高で感染者が出て休校になった時、生徒の心のケアをどうするのか?みたいな話があって、一応学年主任である私も意見を求められた。私は、校内から感染者が出たというだけの話で、なぜ「心のケア」が必要なのか、なぜ訴えもない時点で手を差し伸べることを考えるのか分からなかったので、正直にその通り答えた。
 「心のケア」は、様々な場面でよく話題になる。現在、深刻な悩みを抱えているとか、心が折れそうだという諸君もいるだろう。そこで今回は、さほど書くべきことがないのをこれ幸いと、この「心」の問題について、私が思うことを少し書いておこう。ただし、「平居に相談するのは間違い」という常識(←憶えているかな?)はこの点についても有効で、私が言うことは他の先生が言うこととは違っている可能性が高いから、あまり真面目に相手にせず、考えるための多少の材料にする、という程度に受け止めておいた方がよい。
 さて、東日本大震災直後の話、私は「心のケア」について、一文を書いて公にしたことがある。およその内容は次のとおりである。

 

「私には「心のケア」ということがよく分からない。歴史を学ぶと、人間は基本的に非常に強い生き物であることが分かる。ただし、人間が強いのは「内側から支えられている時」だけだ。外側から他人がケアだのフォローだのと言って世話を焼いても、本当の解決にならないばかりでなく、その人を際限なく弱くする悪循環に陥る。だから、「心のケア」などというものは、できるだけ控えめな方がいいのではないか?」

 

 「よく分からない」という情けない主題の文章だったにもかかわらず、この文章に目を止めて、ひどくほめてくれた方がいた。驚いたことに、某大学医学部精神科の大先生である。その先生が私に下さったお手紙がとても感動的だったので、その一部を紹介しておく。

 

「ご指摘に深く共感いたします。今回のこと(=東日本大震災)で強いストレスを受け、心身に不調をきたし治療やカウンセリングが必要な方はおられます。しかし、その人の”責任”を奪うような働きかけは有害と考えます。また、過酷な体験をしたとしても、それを「トラウマ」などと勝手に外側から他人がレッテルを貼るのは馬鹿げていると思っています。どんな苦悩を持っていても、それを耐え忍び、自分一人で抱える権利が誰にもあると思います。内面に支えられている人間とは、私が思うに、人生の意味を実現しようという意志のある人間でしょう。ストレスや葛藤や苦悩があってこそ、実現される人生の意味もあろうと思います。」

 

 このお手紙に対して私は次のような返事を書いた。

 

「「耐え忍び、自分一人で抱える権利」という言葉に感銘を受けました。確かにそれは「義務」ではなく「権利」なのですね。「義務」とは他者のためであり、「権利」は自分のためであることが多いと思います。「耐え忍び、自分一人で抱える」ことが、他人に迷惑をかけないから価値ありなのではなく、最終的にその人自身にとってメリットになることだから「権利」だ、と私は理解します。」

 

 思うに、「強い人間」を内側から支えているもの(大先生の言う「人生の意味」)は、使命感や向上心のようなプラスのものである場合も、金や地位を求めるというようなマイナスのものである場合もある。強い人間であるためだけを考えれば、内側で自分を支えるものの内容(質)は問題にはならない。
 私は、某先生が評価してくれたことで、自分の考えがお墨付きを得た、とは決して思っていない。精神科の先生方の中にも、大きな考え方の違いが存在するだろう。だが、必ずしも奇人変人のたわ言というわけでもないらしいと思い、ほんの少し安心した。そしてそれ以来、私は「心のケアなんてよく分からん」ということを、ほんの少しだけ自信を持って口にするようになっている。もっとも、私が「心のケア」をよく分からんと言うのは、自分一人の心でも持て余しているから、というだけなのかも知れないのだけれど・・・(笑)。


(ブログ用の注=種明かし)
この記事は本ブログの2011年11月1日記事(→こちら)に基づいて書いている。いかにも私が文章をどこか外部に発表したような書き方をしていることや、ブログのコメント欄を「お手紙」としているのは、「学年だより」用の脚色である。なお、上の文章の途中にある「平居に相談するのは間違い」については、右の「検索」欄に「私に相談する」と入れて検索すると、幾つかの記事がヒットする。