吉野弘の「夕焼け」



 先週の木曜日は猛烈な吹雪であった。電車が止まって、帰れなくなったら困るなあ、と思いつつ、いつもより若干早い電車に乗ったところ、雪で踏切が異常だといって遅れ、一度遅れが生じると、今度は列車交換(仙石線東塩釜石巻が単線なのだ)がチグハグになって遅れが連鎖し、結局、2時間10分も電車の中にいる羽目になってしまった。しかも、立ちん坊である。

 残念ながら、今の電車の中で「人に席を譲る」という光景を見るのはまれである。この日もそのような「日常」と同じだったまでなのだが、何しろ通常の倍の時間がかかったものだから、そのことがひどく気になった。もちろん、誰も私に席を譲ってくれない、というのではない。

 車内に、見るからに膝の悪そうな70才過ぎくらいの老婆が立っていて、その前には、男子高校生3名が座り、さも楽しそうに話し、笑いあっていた。ひどい奴らだなぁ、と思いつつ、こんな時、決まって頭の中に浮かぶのは、吉野弘という詩人の「夕焼け」という作品である。

 電車の中で2回老人に席を譲った娘の前に、三度、老人が立った、という話に続けて詩人は次のように書く。「可哀想に、娘はうつむいて、そして今度は席を立たなかった。次の駅も、次の駅も、下唇をギュッと噛んで、身体をこわばらせて─。(中略)やさしい心の持ち主は、いつでもどこでも、われにもあらず受難者となる。何故って、やさしい心の持ち主は、他人のつらさを自分のつらさのように感じるから。やさしい心に責められながら、娘はどこまでゆけるだろう。下唇を噛んで、つらい気持ちで、美しい夕焼けも見ないで。」

 2回席を譲った娘は、なぜ3回目それが出来なかったのだろう。いや、それでもこの娘は十分に立派だ。日本の電車の中で席を譲るのが決して簡単でないのは、そもそもどうしたなんだろう?外国では、大抵、人はとても自然に席を譲る。先日の授業の時の話に重なってくるのだが、人の注目を集めそうなことは出来るだけしたくない、という日本人の国民性なのかも知れない。すると、日本人の国民性とは、自意識過剰ということなのかな?

 詩の中の娘は、その時の良心の痛みをはっきりと表情に出していた。一方、私が苦々しく思って見ていた男子高校生達は、いかにも平気であった。しかし、だからといって、彼らが平気であったという保証は全くない。私は、彼らが、心に強い痛みを感じながら、どうしても一歩を踏み出せなかった、呵責を感じれば感じるほど、それを表面に出すことに恥じらいを感じる、そんな弱く、いじらしい若者であったと期待したいのだ。だけど、心に痛みを感じていれば、行動には表せなくてもいいのか、というと、いや、大切なのはやはり結果(行動)だ、という人も少なくないだろう。では、あなたなら本当に行動出来る?と尋ねた時、自信持って首をタテに振れる人がどれだけいるだろう。私も、彼らに何も言えなかったという意味で、哀しい存在であった。