不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣



 国語の授業では、間もなく『土佐日記』が終わって『論語』に入る。さすが2500年の時間に耐えた本は違うなぁと、『論語』を読むたびに思う。人生の様々な場面で、繰り返し納得し感心する名言の宝庫である。

 最近(と言うより、もう数ヶ月来)、我が山岳部の活動がすっかり停滞し、学年内で成績不振問題が深刻化する中で、ほとんど毎日、時には日に何度も私の頭の中に浮かぶ『論語』の言葉(正しくは孔子の言葉)に、上のものがある。書き下すと、「之を如何せん之を如何せんと曰はざる者は、吾之を如何ともすること末きのみ」、平易に訳すと「どうしようどうしようと言わない者は、私はその人をどうすることも出来ないのだ」となる。つまり、「どうすればいいだろう」と主体的に悩んでいない人に対し、指導は通用しない(効果がない)ということであり、言い換えれば、人が伸びるために必要なのは、指導の前提となる主体的な悩みである、ということだ。

 教師である私がそう言ってしまえば、いかにも言い訳くさい。最近の風潮から言えば、やる気を引き出すのもおまえらの仕事だろ、と言われそうだ。しかし、思えば、それは中国の聖人、教育界のスーパースター・孔子を超えようという試みであって、真摯・健気な努力と言うより、むしろ傲慢に属するのではなかろうか。