I先生の告別式



 三連休となった週末の初日、土曜日、前任校の同僚であったI先生(享年66才)の告別式に参列した。

 いささか失礼な言い方だが、その崇高な人格に感銘を受けた、という人では必ずしもない。しかし、悪い人ではなかったし、何よりも郷土史の研究家として何歳になっても学ぶことをやめず(定年退職間際に東北大学修士号取得、市の文化財保護委員、各市町村の史書編纂委員、石巻専修大学講師等)、しかも部屋に閉じこもることなく、市民に対して郷土史を普及させることに力を尽くす姿勢に、私なりの畏敬の念を抱いていたのである。決して義理で参列したのではない。

 I先生に対する思いとは別に、感じたこと二つ。ひとつは、元同僚にしても、卒業生にしても、若い世代の人の姿がほとんど見られなかったこと。参列者の中で、私が一番若いくらいだった。これは何を意味するのだろうか?私には、どうも若い人ほど薄情であることによるように思われた。薄情というのは、感謝の気持ちが持てないということであり、それは謙虚でないことを意味する。

 もうひとつ、I先生が定年を迎えた年、その高校では大量6人の定年退職者がいた。その中に、30歳前後で慢性腎不全となり、人工透析を25年も受け続けていたA先生という方がいた。常に体調の優れない中、A先生は日々自分の死を覚悟しながら、授業に自分の全てを賭けていたのが分かった。それは悲愴とすら言ってよい姿だったが、それだけに、周囲の人々に絶大なる感動を与えていた名物教師だった。退職の時、「まさか生きて定年を迎えられるとは思わなかった」と涙ぐんでいた。そのA先生が、車椅子に乗って参列していた。自分とは違い、非常に元気だったI先生の告別式に臨む感慨とはどれほどだっただろうか。人の寿命・運命とは本当に分からないものである。