昭和の終わり、平成の始まり



謹賀新年

 平成も早いもので20年目を迎えた。59回生で平成生まれの高校生に出会ってびっくり仰天したと思ったら、いつの間にか、高校に昭和生まれがいなくなってしまった。私は平成元年の採用なので、平成はすっかりそのまま私の教員生活と重なり合う。長かったような、短かったような・・・。「20」はそれなりにきりのいい数字とあって、正月の新聞各紙は、どれも何かしらの形で、この20年(20年目であって、19年しか経ってはいないのだけれど・・・)を回顧する特集を組んでいた。冬休み中の学校について、今更触れるのも間が抜けているので、今日は私が平成を迎えた時の思い出話を書いておくことにする。一個人の回想とはいえ、多少の知的刺激は含むであろう。

 1988年10月〜翌年2月、私は中南米を超駆け足旅行していた。1989年1月10日、私はウルグアイの首都モンテビデオから、パラグアイの首都アスンシオンに向かった。バスで一昼夜以上かかるのを面倒にも思い、円高が進んで懐具合に余裕が生じたこともあって飛行機に乗った。アスンシオンの空港に着いた時、ターミナルビルの上に掲げられたパラグアイ国旗が半旗であるのが目に止まった。機外に出てから、一体誰が死んだのか尋ねたところ、空港の職員は、私が日本のパスポートを手に持っているのをちらりと見てから、「 Your emperror 」と言った。天皇は私が日本を出る前から危篤だったし、失礼ながら私は天皇に対してたいした敬愛の念というのを持っていないので、特別な感慨はなかったが、天皇を「 Your emperror 」と言われたことに当惑を覚えたことを、妙に鮮明に覚えている。

 パラグアイは、日本から多くの移民が渡った国である。空港からバスで市の中心に出、15分ほど歩くと「内山田旅館」という旅館(!ただし、英語・スペイン語表記はHotel Uchiyamada 私が泊まったのは簡素なベッドルームで、和室があるかどうかは不明)がある。ロビーには、既に日本各紙の「天皇崩御」の号外が置かれていた。

 この旅館には旧館と新館があって、私が泊まったのは朝食付き1泊350円の旧館。ところが、嬉しいことに、1泊数十ドルの新館に泊まっている人も、旧館の住人も、朝は同じ食堂で同じものを食べる。バイキング形式で、海苔も納豆もひじきも味噌汁もある。場末の食堂で現地食ばかり食べていた私は、浅ましい餓鬼になり果てて、ご飯をかき込んでいた。

 ふとしたことから、同じテーブルに座っていた初老の紳士と会話が始まった。ローヤルゼリーの輸出会社を経営している人で、パラグアイの貿易振興への貢献により、「在日本パラグアイ国名誉総領事」の肩書き(称号?)を持つという。私は聞かれるままに、これまでの旅の話をしていた。そして、私が「世界の全てが見たかった。しかし、今春には就職するので、これ以上は無理だろう」というようなことを言った時だったと思う。彼はニコニコと笑いながら、おもむろにこんなことを言った。「君の話は本当に面白かった。何かの縁だ。私からプレゼントをあげよう。今日一日、車を運転手付きで貸してあげるから、好きなところに行って来なさい。運転手は日系2世で、日本語は上手だ。いいガイドになってくれるだろう」そして「どんな所へ行きたいか?」と問うので、私は、日系移民の生活が見たい、と言った。

 私の今までの人生で、これほどすてきなプレゼントをもらったことはない。私はその日、お抱え運転手に連れられて、アスンシオン郊外の移民の家を三軒まわり、いろいろな話を聞いたり、日本食をご馳走になったりして過ごした。皆、質素ではあるが大きな家に住み、ローヤルゼリーの生産(採集)を主に、その他、マンジョカ芋や豆類を栽培して生計を立てていた。家の周りを、日本のペットショップでなら数万円もしそうな大きくて鮮やかな色のオウムが群をなして飛んでいた光景が印象的だった。翌日は、一人でバスに乗って、最も古く大きな日本人入植地であるラ・コルメナを訪ねた。「農協」があり、庭に入植50周年の碑が建っていた。

 内山田旅館の近くには、日系移民協会のような組織の事務所があり、図書室があって、私のような一介の旅行者にも簡単に貸し出しをしてくれる。私は手当たり次第に移民関係の本を借りて、読みふけった。この時の旅行の出発点はロサンゼルスのリトルトーキョーだった。以来、ペルー、ボリビア、アルゼンチン等日本人が沢山入植したところを旅してきて、多少なりとも移民に関する文物に接する機会があり、強い興味と問題意識を持つようになっていたので、どの本も面白いと思い、熱中した。

 パラグアイへの入植は、ブラジルが移民受け入れを制限するようになったことによって実質的に始まったため、中南米諸国の中でも歴史が浅く、現地への同化の程度も低い、と言われている。それでも、苦労は他の国と変わらず、挫折と転職とを繰り返しながら、ようやく安定した状態を手に入れるようになった。本当にいろいろな所で、いろいろな人が、各自なりの条件の下で、各自なりの幸せを求めて努力をしているのだ、ということにしみじみとした感動を覚えた。私に車を貸してくれた紳士との縁にも、世の不思議を思わずにはいられなかった。

 南米の田舎びた国の、1泊350円の「旅館」で、蚊取り線香の煙が立ちこめる中、スイカを手に、移民問題についてあれこれ学び、考えながら、私の「平成」は始まったのである。