「民意」は非常に危険である



 先々週から、DH(一律共学化断固反対委員会)によるデモを挟み、先週にかけて、一高内で「民意」という言葉をよく耳にした。一律共学化に反対する人が70%余りいる、というのが県民世論(民意)で、だから一律共学化は強行すべきでない、ということだ。共学化の是非はさておき、この「民意」の使い方はとても危険だ。

 民意の反映といえば、民主主義の基本のようで聞こえはいいが、なぜ日本を始めとするおそらくは全ての民主主義国家が、直接民主制ではなく間接民主制を取っているかと言えば、それは、人口が増えすぎた結果、直接民主制が物理的に実行不可能になったからではなく、質の高い政治を行うためには、リーダーが大局的な見地から政策を決定した方がより一層よい、と考えられるからだ、というのは定説、もしくは常識と言ってよいことだ。

 つまり、民主的であるためには、民意が反映されることが必要だが、リーダーが民意に反する提言をし、各自の利益に左右されがちな人々を説得し、より全体にとって有利な方向へと統合してゆくことも必要で、それによって初めて、次元の高い意志決定が出来ると考える(もっと深く調べてみたい人は「民意の反映」「民意の統合」がキーワード。或いは、憲法に関する本の「選挙」の項参照)。「民意(と一般に言うのは、世論調査のデータであろう)」は、質問の仕方(表現や時期)によってずいぶん違った結果になってしまうことにも注意が必要だ。

 「民意」を盾に取れば、その逆、すなわち、自分の意見が「民意」と一致しない時には、無条件で白旗を揚げる覚悟が必要だ。大切なのは理念である。理念をしっかり考えること、ここを抜きにして「民意」を振りかざせば、それは民主主義ではなく、衆愚政治に過ぎない。