自ら悩み、自ら悟れ



謹賀新年

 特に何もなく、実家に行ったくらいで、静かな年末年始を過ごした。昔だったら「つまらない」などと文句も言ったかも知れないが、歳を取るに従って、この平凡に家族揃って時を過ごすことこそ大変幸せであると感じるようになっている。自分としては、いいお正月だった。

 一方、社会に目を転じると、二つの暗いニュースが気になる年末だった。

 ひとつは不況、特に雇用を打ち切られた多くの失業者の存在である。これは何とかしなければならない。ただし、私は不況の根本的解決を目指す考え方にはあまり賛成ではない。この世には、人間の力を超えた「時」というものが存在するのであって、今回の不況なども「時」の働きに属すると思う。人生でも同じだが、じたばたせずに、じっと苦しみに耐えていなければならない時には、そうするしかない。やがて必ず光は見えてくる。

 もうひとつはパレスチナだ。私は、イスラエルという国の歴史を考えると、「人間」の持つ負の側面について絶望的に暗い気持ちになる。過去1900年に渡って迫害に苦しんできたユダヤ人が、なぜ人の痛みを理解せず、これほど残虐、横暴になれるのだろうか。こちらは「時」の働きなどではあり得ない。ガザの惨状をテレビで見つつ、じりじりするような思いで、それでも祈るしかできない自分が哀しい。

 いささか暗くなったが、今年が全ての人にとって良い年になりますように。

〈自ら悩み、自ら悟れ〉

 冬休み中、10名の方と「保護者面談」をした。四方山話を織り交ぜながら、いろいろな話をし、そして結局、問題点について、私は何の解決策も示せなかった。「先生」と呼ばれる立場に在るものとして、ドラマチックな解決策を示すことが出来て、「平居先生のおかげでうちの子がこんなになった」と感謝されれば、どんなに格好いいことかと思う。

 私が無策であり、「信じてじっと見守っていましょう」と宗教家のようなことしか言えないのは、ひとつには自分の力量不足であるが、人間、或いは人間の成長は、結局、自分自身で気付くことによってしか実現しない、という思いも強いからだ。私(達)大人に出来ることがあるとすれば、様々な刺激を、ヒットする確率は数万分の一以下と覚悟しつつ、与え続けることと、諸君がやがては自らきっと正しく、幸福な道を見出すに違いないと信じて待ってやることだけだろう、と思う。

 人間の成長には時間がかかり、個人差も非常に大きい。にもかかわらず、私(達)の思い描く理想のイメージを無理に押しつけ、即効性を求めようとすれば、労多くして実り少ないばかりか、諸君をダメにする可能性も小さくないだろう。

 まあ、こんな頼りない私であるが、諸君の親と論争やけんかになることもなく(私に対するあきらめと寛容のおかげか・・・)、諸君の優れた可能性や、人間的に愛すべき点について語り合えたのは幸せなことであった。親というのはありがたいものだ。諸君の親と話しながらそう思った。