原点は人と人(3)



 大地震があったからこその人間関係復活のドラマは、まだまだ続いている。

 4月4日には、東京在住の友人I君夫妻が、支援物資を持って我が家に遊びに来てくれた。約20年ぶりの再会である。

 6日には、有名なイタリア料理のシェフ・落合努氏が、宮水の近くにある万石浦中学校で炊き出しをしてくれた。と書けば、例によって有名人による慰問ね?という話になるが、そうではない。1月28日に、宮水食品科学類型3年生の3人が、NHK「おいしい闘技場」なる番組に出演したことは、このブログでも何度か触れた。落合氏は、その時の審査員の一人である。あの時、番組で接した宮水生が忘れられず、大地震が起こるや安否を気に掛け、そして遂に、自ら石巻に乗り込んで、彼らとの再会を果たすとともに、料理の腕を振るってこの地域の人々を励まそう、ということになったそうだ。宮水との縁で石巻に来ることにしながら、炊き出しの会場が万石浦中学校になったのは、落合氏とは関係のない、市の政治的事情によるらしい。

 私も、ペンネとリゾットをお代わりしながらたらふくご馳走になった。そして、3人プラス担任O先生との感動の再会も目の当たりにした。落合氏は、見かけはただのおじさんだったが、それだけに、今回の炊き出しに有名人的なパフォーマンスの匂いが無くて良かった。人と人とのつながりは純粋で、だからこそ嬉しく、楽しいのである。

 この日、私が子守で学校を休んでいた前日(5日)に、石巻高校で担任をしていたY君から学校に電話があったと伝えられた。驚くとともに感激した。

 Y君は、在学中に心を病んで不登校に陥り、留年した。その時に私が担任となったのだが、残念ながら最終的に退学してしまった。退学後、1〜2度、学校に訪ねてきてくれたことはあったが、私の異動もあって、その後10年以上に渡って音沙汰はなかった。しかし、Y君は非常に純粋・繊細な青年で、私としてはまったく悪い印象もなく、両親も立派な方だったので、私はいまだに2〜3ヶ月に一度は、どうしてるかなぁ?と思い出していた。他の教員がどうかは知らないが、私は卒業した生徒よりも、退学した生徒というのが後々まで非常に気になる性分なのである。

 ある先生に、「その子、成宮丸の船長の息子だど」と教えられ(なぜこれが分かったのかは不明)、私はもう一度びっくりすることになった。成宮丸と言えば宮城県を代表するマグロ延縄船で、昨年、私も少しばかり船長にお目にかかる機会があった。しかしその時、私は船長をY君の父親として思い出すことはできなかったのである。

 私が不在だったために、Y君は、事務職員相手に私の安否を確認すると、また電話をすると言って切ったそうであるが、待っても電話はかかってこなかった。

 私は、Y君の今の連絡先を知らなかったので、同僚から成宮丸船長の携帯電話番号を教えてもらい、勇気を出して掛けてみた。幸い成宮丸は入港中で、電話はつながった。そして、10分余りに渡って久闊を叙し、近況を語り合い、Y君に私の電話番号を伝えてくれるように依頼した。

 1日置いて昨夜、Y君から電話がかかってきた。退学当時からは想像できない、明るく、前向きなしっかりした声である。電話で数分話をしただけで、私は、現在の彼が自信を持って生きていることを知った。ニート支援等をする某NPOの職員として仙台で働き、妻子もいるそうである。驚くべきことに、「船長」は、昨年私と会った時に、私がY君の担任だった平居だと気付き、家で話をしたために、Y君は私が宮水にいることを知っていたのだそうである。

 教員になってよかったとしみじみ思いつつ、Y君と再び接する機会を作ってくれた大地震にも感謝したことであった。


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