特別だった卒業式



(3月5日付け学級通信より)


 3月、弥生(やよい)である。卒業式の日こそ暖かかったものの、風の強さもあって、まだまだ寒い。春を感じるとすれば、陽射しと昼間の長さくらいかな。ところで、弥生というのは「ますます生える」または「ますます生まれる」の意味、すなわち、植物が盛んに芽を出し、動物が活発に活動を始める、ということだろう。都(京都)中心の表現なので、身の回りでそんな現象を目にするまでには至っていないが、もうすぐ、そんな季節がやって来る。


【特集:卒業式・・・今年は特別だった!】

 まずまず立派な卒業式だった、というのは、昨日S先生からもお褒めの言葉があったとおり。諸君が落ち着いた態度で式に出ていたことなど、本当は褒めるのが失礼(侮辱)だというくらい当たり前のことなので、私は言わなかっただけ・・・。それ以外の点で、今年はちょっといつもと違うぞ、ということがいくつもあったので、少し触れておこうと思う。

*生徒会長S君・・・これに尽きる!

 我がE2に在籍する生徒会長は、送辞、校訓・校歌、エールと大活躍であった。教室でS君と私が送辞について話をしているのを目にしていた人もいると思うが、当初は、S君が送辞を読むかどうかでもめていたのである。それが当日は、あの堂々たる送辞だ。

 私が最も感心したのは校歌であった。彼は大きな声で全体を引っ張ろうとしていたのだが、残念ながら録音とは全然速さが合っていなかった。しかし、スポーツの世界でも、ファイトあふれるプレーをして失点したのは、やる気のないプレーで失点したのとは異なり、評価の対象になることもある(無謀はダメだけどね・・・)、というのを知っているだろう。それは成長のきっかけにもなれば、人に感動を与えることもあるからだ。S君の校歌はその類である。

 「生徒会長として宮水を変える」が、S君が生徒会誌『錨章』に寄せた文章のタイトルだ。何を偉そうに言っても、言うだけで宮水が変わったりはしない。だが、あの校歌のように、体を張って行動すれば宮水は変わる。そんな明るい希望が持てた。

*E3・・・涙の最終ホームルーム

 式終了後、私はE2を捨て置いて、E3(情報科学科3年、男子のみ34名)のホームルームに出ていた。1年生の時、私が副担だったという縁があったからである。

 実は、東日本大震災によって、宮水では2名の生徒が亡くなったが、そのうちの1名は今のE3から出てしまった。卒業式の答辞でも、そのことについて一切言及がなかったことに多少の不満を感じていた私は、短いスピーチの中で、その生徒S君に少し触れた。

 最後に担任T先生が教壇に立った。28歳で、担任として初めて迎えた卒業式の上、昨年9月末に脳溢血で倒れ、入院して治療とリハビリに励んでいたため、誰も卒業式に出られると思っていなかったあのT先生である。後遺症がひどくてまだまだ万全にはほど遠く、病休のさなか、奇跡の卒業式登場である。T先生は、生徒に立って後ろを向かせ、見守る保護者に「ありがとうございました」と礼を言わせた。その後は、うまく言葉が出てこない様子だったが、気持ちはみんなに伝わっていた。ほとんどの生徒が鼻をすすりながら、肩を揺らせて泣いていた。

 私は、男子校の卒業式に16回出、うち6回は自分が3年生の担任だった。しかし、男子高校生がこんなに泣く姿を見たのは初めてだ。3年間の結果としての卒業というだけではない。3年間の最後の1日にこそ、濃縮された学びの場があった。

*名文が多かった『錨想』『眺海』

 卒業式に先立って、例年通り2冊の本が配られた。私はいつも隅々まで目を通す。今年は特にしみじみと心打たれる文章が多かった。私がもっとも感動したのは、『眺海』(図書館報)に載ったS先生(今年で退職、実習船指導教官)の「ホノルル」である。『錨想』のT先生やK先生の文章もよかった。

 諸君にしてみれば、こんな字ばかりの本読んでいられない、と思うかも知れない。だが、1月の授業でやった通り、文学(文章)を読む上で大切なのは、そこから何かを得たいという前向きな気持ちと素直な心である。同じ2冊の本を与えられても、そこから学ぶ人は学ぶ、学ばない人は何も学ばない。今からでも、ぜひ読んでみて欲しいと思う。

 さあ、次は諸君が卒業する番だ。少しでも多くの諸君が一緒に卒業できますように・・・。


(裏面:2月23日『朝日新聞』より、「極寒を体験 ロシア・オイミャコン村を行く」を引用

 平居コメント:オイミャコン村(地方)は、「寒極」と言って、地上で最も寒い所だということは、私も高校時代に「地理」の授業で勉強して憶えている。−60度と言えば、漁港にあった石巻市超低温倉庫の中と同じ温度だ。そこに人が生活しているというのは驚きである。寒極ならではの面白い現象の数々・・・地球は大きく、世界は広い!)