「合法的ないじめ」と萎縮する学校



 今日、自分のクラスで、HRの時間にこんな質問を受けた。

「来週から校歌・校訓練習が始まる。ところが、今日、生徒会長が校長に呼ばれ、1年生に対して罵声を浴びせたり威圧したりしないように、と注意があったらしい。校歌を歌わない1年生に大声を出して何が悪いのか?先生の考えを聞かせて欲しい。」

 私は、次のように答えた。

「県内のあちらこちらの学校で、20年くらい前にはあった応援団が今はない。私も、10年あまり前に勤務していた某高校で、応援団の顧問をしてなかなか大変な思いをしたことがある。それは、毎年春に、応援団が校歌や応援歌の指導をするのだが、彼らが非常に威圧的な指導をするからだ。実は、新入生に威圧的な指導をすること自体が問題となるわけではない。そこで威圧的な指導をする応援団のメンバーの多くが、日頃から出席状態が悪く、勉強もしない、典型的なぐうたら高校生だったからだ。自分たちは、高校生としてするべきことが全然できないのに、なぜ新入生の声が小さいとか、歌詞を覚えていないとか、偉そうに怒鳴り散らすのか?ということで、これは私自身もそのように思っていた。

 以前、諸君に、いじめの話をしたことがある。人間は誰しも弱虫になりたくない。しかし、強くなるための努力をするのは嫌だ。若しくは出来ない。そんな時、自分より弱そうな相手を見つけ、いじめることで優越感を感じ、自分の弱さをごまかしてしまう。人をいじめるのは弱い人であって、強い人は絶対にそんなバカなことはしない。

 しかし、人をいじめれば、問題となる。先生に見つかれば、停学指導もあり得るだろう。そんな時、合法的ないじめの手段として、応援団の校歌指導に飛びつく。そのようにして存在していた応援団が、やがてつぶされてしまったわけだ。

 宮水だって、先日の対面式で、前から2列目か3列目までにいた運動部の諸君は、校歌も校訓も覚えていて、大きな声を出していた。しかし、その後はさっぱりだ。その時声を出していた諸君だけが1年生に校歌指導をするなら、私は多少の威圧を認めてもいいのではないかと思う。しかし、生徒会の計画ではそうなっていなかったようだ。便乗して『許されたいじめ』に加わる生徒が現れる心配をするのは、私にもよく分かる。

 もうひとつ気になるのは、最近、学校で問題が起こると、信じられないくらい厳しい批判が学校に寄せられるということだ。それは、いじめや体罰の問題で諸君も知っているだろう。何か起こった時の批判が今くらい厳しく、裁判でも学校側の責任を問う判決が多いとなると、学校は、とにかく問題が起きないようにと神経質になるのは当たり前だ。私の目から見ても、今の学校は、信じられないほど問題が起きることにおどおどびくびくしている。上級生による威圧的な指導が行われた場合、それが私たちの目から見ればたいしたものでなかったとしても、それを恐れて登校拒否になる1年生が出た時には、学校の責任がやはり厳しく問われる。多少手荒なことでもあった方が、将来的にたくましく強い人間が育つ可能性はあるが、宮水の最終責任者であり、その批判の矢面に立たなければならない校長としては、そんな可能性を捨ててでも、少しでも問題が起きる可能性のあることはできれば止めて欲しいことだろう。それを、校長が不甲斐ないといって批判するには、問題が起こった時の被害者(?)やマスコミの言動は『えげつない』という表現が似合うほど激しい。校長だけを批判するのは少し気の毒だ。」

 日頃まったく落ち着きがなく、私が「動物園」と呼んでいる我がクラスの生徒が、わずか10分ほどながら、し〜んと水を打ったように静かに、しかも顔を上げて聞いていた。え?なぜ?と、少し気味悪さを感じたほどだ。私の話に、生徒が納得したのかどうかも含めて、その時彼らの心の中で何が起こっていたのかは聞いていない。興味はあるが、尋ねないことにした。