「へ」と「に」に悩む・・・小学校の授業参観後日談



 先日、小学校の授業を見に行った話を書いた。実は、それ以来、私はある悩み(疑問)を心の中に抱え込んでいた。

 1年生の「国語」の授業、テーマはwaと発音する「は」とeと発音する「へ」の使い方であった。例文を示した後で、先生が、黒板に「わたしは、(  )へいきました」という文を書き、生徒に( )を埋めさせる形で理解の確認をしていた。

 何名かの生徒に、出来上がった文を読ませたところ、某生徒が「わたしは、あきたにいきました」と読んだ。私は、「えっ?」と思って、その子のノートをのぞき込む。すると、「わたしは、(あきた)へいきました」と書いてある。驚くべきことに、10人ほどの生徒に読ませたうち、3名がノートに「へ」と書きながら、「に」に読み替えて朗読したのである。先生は、そのうち1名についてだけ、「に」を「e」に訂正させた。他の2名について、なぜ同様にしなかったのかは分からなかった(よく聞こえなかっただけだろう)。

 私は考え込んだ。生徒がノートに「へ」と書きながら「に」と読んでしまったのは、その方が日本語として自然だと感じられたからに違いない。私の感覚でもそうだ。もちろん、授業のテーマはeと発音する「へ」が存在することを確かめ、使えるようにすることであって、「へ」と「に」の使い分けではない。それにしても、「へ」と「に」は、どのように違うのだろうか?私は、小学校を出た後も、更に翌日も翌々日も、頭の中に例文を思い浮かべてはその違いを考え続ける羽目に陥ったのである。

結論の見出せないまま、休日であった今日、遂に我が家の書架を大捜索して、答え探しをした。日本語文法に関してたいしたコレクションがあるわけではないので、結局は、『古語辞典』が一番役に立った気がする(現代語について考える時でも、江戸時代以前から存在する言葉については、古語辞典の方が有効である場合がほとんどだ。言葉の元々の意味が分かり、それがニュアンスの決定に大きな意味を持つからである。私は現代文を読む時でも、古語辞典を多用する)。とりあえず、三省堂『詳説 古語辞典』の記述を引用(改)する。

 「へ」:動作・作用が及んでいく方向・対象を表すことが基本。これに対し、格助詞「に」は動作・作用の及んだ先、到着点を表す。「へ」が到着点を表す用法は、「に」の用法と混同したもので、中世あたりから盛んに見られる。

 元々「へ」に比べると「に」の方がピンポイントだということらしい。だから、指名された某生徒が、「わたしは、(ディズニーランド)へいきました」と読んだのを、先生は合格としてほめていたが、これはむしろ間違いで、「に」とした方がいい。

 ところで、「北海道」へ行くのは「へ」で、「札幌」に行くのは「に」、ただし、これらは相対的な考え方なので、「札幌」へ行くのは「へ」で、「北海道大学」に行くのは「に」、いや、「北海道大学」へ行くのは「へ」で、「クラーク会館」に行くのは「に」、いやいや、「クラーク会館」へ行くのは「へ」で、「食堂」に行くのは「に」・・・なのかな?混乱してきたので、曖昧・漠然の代表格として、「船は太平洋を南へ進んだ」という例文を考えてみたが、やはり「船は太平洋を南に進んだ」でも構わない。前の辞書の記述を念頭に置けば、前者が「南の方」、後者が「真南」を指すと読めるが、実際そのように読ませたい場合は、「南の方へ」という言い方をするだろうし、そうすれば「南の方に」でもやはり同じことだ。

 こう考えてみると、現代人である私にとって、「へ」でなければならない状況がほとんど思い浮かばず、すべて「に」で用が済んでしまい、しかもその方が自然であることに気が付いた。中世以降の混同どころか、「へ」の消滅とも言うべき状態である。なるほど、小学生が「に」と読みたくなるわけだ。「へ」が必要になるのは、「私は東京へと向った」「将来への夢」のように、「へ」が他の助詞と結び付く時だけだ。前者の場合、「私は東京に向った」とどう違うかと言えば、「へと」の方が、もともと目的地が決まっていなかったとか、新潟に行こうとしていたとかの状態から変化した結果というニュアンスを含むような気がする(けど、本当かなぁ?)。後者は「に」がまったく使えない(「へ」の後に「向って」を補うと「に」も使える)。

 以前、韓国・釜山大学で「日本語」の授業を参観して、あまりにも難しくて驚いたことがある。ALTに日本語に関する質問をされて困り果てたという体験も多い。先日は、私のクラスに在籍する中国人生徒に「は」と「が」の使い分けを教えてやろうなどという無謀な試みを行って、脂汗と恥をかいた。

 日本語はなんと難しいのだろう!そして、それをごく自然に使いこなしている人間の能力とは、何と優れたものだろう!難しいということは、表現の奥が深いということであるはずだ。日常レベルで日本語を使うというだけのことから見れば、一見ほとんど意味のないことに数日間悩んだわけだが、それによってそんな言葉の性質に襟を正したことは、多分、自分が日本語と付き合っていく上で意味のあることだと思う。