自分たちがしたことの意味



(2月21日付学級通信より)


 昨日書いたイージス艦見学に先立ち、土曜〜日曜日午前は、秋保温泉で開かれた県内の高校教員の自主的な勉強会というのに出席していた。

 実は、昨年末、E1のクラス演劇のことについて話をして欲しいと依頼を受けた。北高の某先生が諸君の演劇を見て感動し、他の学校の先生にも話したところ、「今時、クラス演劇ができるクラスなんて、県内探してもないぞ」という話になり、いったいどんな生徒たちのクラスなのか話を聞きたい、ということになったらしい。私は、「演劇だけを取り出して話をすることは難しい。日常があっての演劇だし、私自身が演劇というものを特別に意識し、目標として生徒と関わったわけでもない。だから、担任として自分がやっていることをお話しし、その中で少し演劇にも触れるという程度なら・・・」と言って引き受けた。そして、日曜日の午前、20人ほどの若い先生達に対し、「クラス担任としての私」と題して、若干のお話をした。本当は、私よりも、諸君が行って話をした方が面白かっただろう。

 私たちは、自分の行為にどのような価値や意味があるのかということを知るのが、案外と難しい。だから、こうして自分のしたことを人に聞いてもらい、人の感想や質問から、自分がしたことの意味を考えるのだ。諸君は、少なくとも、「演劇が出来るクラス」というのが、どの学校の先生にとっても驚きであることは、知っておいてよいだろう。

 会の終了後、県南のある先生に声を掛けられ、「このクラス3年間同じメンバーなんですよね。あと2年でどれほど成長して面白いクラスになるか楽しみですね。もしも来年また演劇をするのでしたら、ぜひ知らせて下さい。生徒を連れて見に行きたいので・・・」と言われた。

 以前から約束する通り、私は、仮に来年私がE2の担任だったとしても、諸君に演劇を無理強いしたりはしない。ただし、錨章祭で演劇以外の何をしようとも、レベルアップは絶対の条件だ。何をすることが、最も自分たちの良い所を生かし、自分たちを成長させることが出来るのか、今のうちから問題意識を持っていて欲しい。


(裏面)2月12日付『朝日新聞』より、「どうする 子ども同士のもめ事」

平居コメント:もともと大人用の記事だが、子どもの立場でも考える材料になるはず。小学生でも高校生でも大人でも、人間関係の基本は同じ。