命は「絶対の価値」か?



 2日間書いた「臓器移植」の問題は、命という「絶対の価値」についてどう考えるかという問題でもあった。

 私の父は、2002年1月23日の夜、脳溢血で倒れた。救急車で、脳外科が有名な仙台市富沢の広南病院に運ばれ、翌日、開頭手術を行って血腫を摘出した。意識は明瞭となったが、右半身に麻痺が残り、リハビリを行うようになった。

 ところが、病気になる前はバイタリティーに溢れ、勤勉な努力家であった父が、リハビリには一向に本気にならない。投げやりな発言も多く、身内をいらだたせた。やがて、認知症とも思われるボケが認められるようになり、体の麻痺も悪化した。倒れてから4年後くらいには起きて歩くこともままならなくなり、失禁を繰り返し、会話も成り立たなくなってきた。2年間は完全に寝たきりとなっていた父が死んだのは、病気になってから7年半後の、2009年8月29日のことであった。

 臓器移植のみならず、様々な病気についての様々な新しい治療法について耳にすることは多い。その大半は、肉体に関わるものである。思考力や認識力といった「脳」に関することは、なかなか話題にならない。しかし、脳に関わることを放置したままで、肉体の治療だけを追い求めるなら、これはたいへん困ったことになっていくだろう。肉体が維持されても、脳はそれと無関係にどんどん劣化していくからだ。

 心臓が動いているかどうか、瞳孔が収縮するかどうか、これらは基準として非常に分かりやすい。それらが止まれば、明らかに「死」である。しかし、思考や認識を、外部の人間がどのように状況把握すればよいかというと、これはなかなか難しい。それらがほとんど失われ、本人も自分の状況を把握できないという状態になっても、その人が「生きている」以上、その命は尊重せざるを得ない。積極的な延命治療はしないまでも、命を維持するだけの作業は必要となる。しかし、その人は、基本的に自分の命を自分で維持できる状態にはない。食べることも出すことも、全て人の手を借りることになってしまう。これがいいことなのかどうか?命という「絶対の価値」は、果たして人を巻き込むことを許すのだろうか?

 死んだ後になって、父の寿命は、脳溢血で倒れた時に尽きていたのだということがはっきりと分かる。それを、現代医学によって救命した結果が、母を中心とする介護地獄を生んだのだと思う。

 父が認識力をほとんど失って寝たきりになっていた頃、母も含めて、家族の誰一人として、生きていてくれるだけでいい、と思ったりはしなかった。逆に、まだ父がかろうじて認識力を有していた時期に、骨盤に悪性腫瘍が発見された時、これでようやく先が見えた、と皆で安堵したものである。

 私は、自分自身のことについて、死を「恐い」とは決して思わない。しかし、「もったいない」とは非常に強く思う。今まで約50年間に積み重ねてきた知識や経験を、一瞬にして全て失うのは、何とも惜しい。ということは、たとえ肉体的に生きていたとしても、脳の機能が低下して、蓄積された知識や経験を使いこなせなくなった時、私は殺されてもかまわないと思うのである。私にとって、大切なのは脳に関わる意識の側であって、肉体の側ではない。命は、それが肉体的なものであるとすれば、「絶対の価値」にすべきではないと思うのである。

 だからなおのこと、人のことも含めて、脳が劣化していくのに、技術の開発によって、肉体だけが維持されるのは非常に困ると思うのだ。何かしらのルールを作って、治療にブレーキをかけなければ、周りの人間が苦しみ、本人も幸せでないという事例を数限りなく生み出すことになってしまうだろう。

 もっとも、父の病気も、治療の当初から上のような帰結が見えていたわけではない。父の友人にも、脳梗塞で開頭手術をしながら、完全に回復し、何の後遺症もなく生活している人がいる。父もそのようになるかも知れないという期待の下で、治療に踏み切ったのである。先のことは見えない。見えた時には抜け出すことが出来ない。どうすればよいのか分からない。やはり、ある一定の年齢以上の人には、絶対確実な治療以外はしないというのがいいように思うが、悩ましい事例はいくらでも発生するだろう。ただ、私自身についての希望としては、自分のことが自分で出来なくなり、かつ、知的生産が不可能となった時点で、安楽死させてくれるよう予め求めることは、せめて認めて欲しいと思う。