生体移植は禁じ手である



 昨日、臓器移植に触れたついでに、もう一つ書いておこう。

 先日、生体臓器移植の「同意」に関わる悩ましい症例を読む機会があった。それはこのようなものである。

 「重い病を患った女性は、移植以外に延命の方法がなかった。移植をしなければ、1年以内にほぼ100%の確率で死ぬ。偶然的なチャンス(=ドナー登録をした人が死ぬ)を待っている余裕もない。生体移植を望んだが、血液型の問題から、提供できるのは妹だけしかいないことが分かった。妹に意思を尋ねたところ同意したので、生体移植が行われた。」

 問題は、この娘の同意を、本当に「同意」と考えるかどうかである。

 本当に積極的に、姉に臓器を提供したいと考えたなら、とりあえず問題はない。しかし、それを嫌だと思った場合、妹は拒否できるだろうか?私ならどう考えるだろう?

 姉は移植を希望している→移植できるのは自分しかいない→ドナーになるのは嫌だ→移植を断れば姉は死ぬ→罪悪感に苦しみ、親族からも批判されるだろう→それは生涯続くに違いない→嫌ではあるが、ドナーになるしかない。このように考えるのではないだろうか?つまり、姉が移植を希望していて、自分しか適合者がおらず、しかも、移植をしなければごく近い将来100%姉は死ぬという場合、提供を拒むことは、姉に向ってピストルの引き金を引くのと同じことなわけだ。違うのは、法的に(あくまでも法的に)許されているということだけである。いくら然るべき立場の人が、本人に圧力をかけないように細心の注意を払って意思を尋ねたとしても、明らかに彼女は「事実」によって同意を強いられている。

 姉は移植を受けたとしても、その後何年生きられるか分からない。どの程度に生活の質(QOL)が確保されるかも分からない。一方、妹にも10%以上の確率で後遺症が残り、40%弱の確率で健康に不安を抱き続ける。同意に至るまでの心理的葛藤も、摘出手術も負担が大きい。未婚の女性が、体に大きな傷を付けることにもなる。命を延ばしたいという「絶対の価値」の前に、全てが従属してしまったのである。

 これこそ、生まれてしまった技術を人間が使わないことは出来ず、それによって必ずしも幸福になるとは限らない、という典型的な事例だ。

 妹の「自由意思」を、真に自由なものにすることは不可能であろうが、それでも、出来る限り「自由意思」に近づけるためには、姉に移植を希望しないよう説得しあきらめさせることが、少なくとも必要だ。そして、出来れば、生体移植を原則として禁止し、例外を認めるとしても、「親から子へ」に限定すべきだろう。上の症例のような悲劇は、生体移植が行われる限り、必ず発生する可能性がある。だから、原発同様、生体移植は禁じ手なのである。