臓器移植のための「脳死」



 脳死と診断された6歳の子から、臓器提供があり、移植が行われた。私は、技術というのは、生み出されてしまうと、善くても悪くても使わざるを得なくなり、それが幸福と不幸の両方を生み出して、差し引きがプラスかマイナスかは疑わしいと思っている。しかも、大抵の場合、プラスはすぐに見える形で得られるが、マイナスは時間が経ってから表れるので、ついついプラスに目が行くものだから、なおのこと、最後には人間を苦しめることになる技術でも、使う方向に動いてしまうのだ。

 ともかく、かつて臓器移植に関する法的な議論を聞いていて思ったのは、脳死が人の死かどうかを判断するに当たり、臓器移植をより多く行えるようにするという結論に、ついつい引き寄せられていくという問題だ。つまり、死をどう考えるかという哲学的な問題が、純粋に理念的に議論されるのではなく、臓器移植のためには脳死が「死」でなければならず、どうすれば脳死を「死」と出来るか、というつじつま合わせ、言い訳の議論が行われたように思われてならないのである。

 脳死移植によって、命を延ばすことが出来るのはいいことだろう。生き物にとって、命を延ばすことは「絶対の価値」とも言うべきものなので、その価値の前では、大きな手術を受けなければならないとか、失敗のリスクがあるとか、免疫抑制剤を生涯にわたって飲み続けなければならないとか、生活に制限があるとかいうことは、問題にならないのかも知れない。

 しかし、医学の恩恵を人一倍受けながらこの歳まで生きてきた私が、こういう事を言うのは甚だ勝手なのだが、本来「命」というのは人間の力ではどうすることも出来ないものであった。家族が死ぬという悲しみも、新しい命が生まれるという喜びも、それが自然であり、どうにもならないことだったからこそ悲しくも、喜ばしくもあったのだ。正に「ものごとは定めなきこそいみじけれ」(兼好)なのである。もちろん、臓器移植をしようが、最後には死ぬものなので、その事実に何ら変わりはないのだが、それでも、臓器移植、更には再生医療という奥の手まで使って「命」に手を加えることは、人間の死生観や自然観、いや喜怒哀楽そのものを変化させていくのではないだろうか?それが果たして、自然の中の人間の位置を狂わせることにならないのかどうか・・・?その議論の過程も含めて、どうにもスッキリしないものが残るのである。