「景気回復」という幻想へ向かう「おめでたい」新年



 先の衆議院議員選挙で自民党が圧勝した。年末には、株が今年一年間の最高値を付けて納会となった。円安傾向も強い。昨日の大発会で、株価は更に大幅に上昇した。自民党の経済政策への期待もあり、アメリカが「財政の崖」を回避したということもあるだろう。

 年末30日に、中学校時代の恩師の家に行き、四方山話をしていたところ、師が「景気がよくなると思っている奴の気が知れん」と言い出した。全く同感である。

 年始、初売りの膨大な広告の束を見ながら、欲しいものが何もないことに気付く。そう、今の私たちの生活はあまりにも満たされている。金の力で解決できることで、一生夢で終わる事なんて見当たらない。あるいは、ヨーロッパにファーストクラスで行くなどというのは、数少ないその類いの「夢」なのかな?と思ってみたりするが、それとて、極めて平凡な庶民的金銭感覚が、そのような贅沢を心理的に許容しないだけであって、そのお金がどうしても工面出来ない、という訳ではない。

 景気がよくなるというのは、人々が盛んにお金を使い、世の中を流通するお金の量が増えるということであって、世の中全体のお金の量が増えるということではない。そのためには、何かを買うことが必要なのだが、買いたい物がないとなると、永遠に景気はよくならないことになる。私が人に比べて、新しい物、より便利な物に心動かされにくい人間であることは確かだが、これ以上欲しいものを探せと言われても、そう多くのものは見つけられないというのは、全ての人において言えることなのではないだろうか?加えて、今の経済活動を根底からひっくり返すことになる石油の枯渇、それに先立つ原油価格の高騰という「文明の崖」は、どう考えても目前に迫っている。景気をよくするためには、現在と同じように「世界の穴」とも言うべき発展途上国に強引に食い込むか、石油の代わりになるエネルギーを安く国内で供給出来るようにするしかない。ただし、前者はしょせん一時的なものだし、後者を環境問題との軋轢ナシに実現するのは至難であろう。つまり、景気が長期的によくなる可能性は全くないのである。

 このような立場で、現在の政治を考えるとどうなるであろうか?消費増税を保留とし、法人税を下げ、日銀法を改正し、国債をより多く日銀に引き受けさせるなどして、景気の好転を目指すという。これがうまくいくのは、政府が言うとおり、それらの結果として思い通りの景気回復が実現した時だけだ。思惑通り行かなかったら・・・今までよりもはるかに大きな借金と、国際的な信用不安、場合によっては地獄のようなハイパーインフレだけが残ることになる。思えば、今の国債発行高だって十分に天文学的なレベルだが、これは、借金してでも景気対策を取れば、やがて景気は好転し、借金の返済は可能になるという論理の上に積み重ねられたものではなかっただろうか?この手の対策は実施すれば実施するほど、後への付けが大きくなる。

 ソ連や東欧諸国が崩壊し、共産主義社会主義は一気に欠陥思想であるかのような評価が確立した。しかし、今の日本などを見ていると、資本主義もまた、最終的には破綻に至ることが必然であるように思われてくる。私はよく、「(ひとつのやり方によって生まれる)利益は目前に、より大きな不利益が将来に」ということを言う。人間の経済社会には、この真理が重層的に成り立っているのではないか?と思う。すなわち、「全ての人が食えるように」という共産主義の素晴らしい理念は、共産主義国家の成立とともに実現するが、やがて、官僚機構の腐敗と人々の盛んな欲望によって挫折する。一方、人々の欲望と自由競争によってうまれた資本主義の活気ある経済社会は、便利で快適な消費社会を実現させるが、欲望を生み出し続けることが難しくなり、なおかつそれを実現させようとして無理を重ねることで壁にぶち当たり、崩壊する。共産主義国家が生まれてから滅亡までの時間よりも、資本主義社会が成立してから欲望の壁にぶつかるまでの時間が長いために、資本主義社会の人々は、いまだその問題に気が付かず、共産主義に対する勝利感に酔っているだけかも知れない。

 共産主義にしても、資本主義にしても、そのシステムが人間によって作られ、人間によって維持される以上、人間という生き物が抱える本質的な不完全性は、遅かれ早かれ社会の矛盾として表れるのが当然なのだ。そこに本質的な違いのあるはずもない。もしかすると、問題が時間の長さに比例してため込まれるものだとすれば、資本主義の方が共産主義よりも命脈が長い分、最後に迎える破綻はより一層激烈で救いのないものになることさえあり得る。

 景気がよくなることが幸せであるという固定観念に取り憑かれた人々は、景気さえよくなれば幸せになれると誤解する。あるいは、現在の生活に何かしらの不満がある人が、その原因を真摯に見極めようとせず、何となく、世間の風評や目に見える分かりやすい部分にばかり気を取られると、自分がうまくいかない原因を自分の外側、すなわち経済とか景気とかいうものに求めて納得したような気になり、景気対策を声高に叫ぶようになるのかも知れない。同時に、「こうすれば景気がよくなる」と説明されれば、「その通りだ」と思いもするが、景気回復の前提となる欲望が限界に達していることには、まったく気付いていない。

 景気はよくならないのである。これは私の感情論ではない。その前提に立って、お金や経済成長を幸せの尺度とせず、新しい価値観で世の中を動かすしかないのだ。それが出来なければ、社会の破綻へ向けてまっしぐらに突き進む現実を、黙って見ているしかない。大発会の株価を見ながら、なんとも「おめでたい」新年だと思った。