憲法を生んだ理想主義・・・ベアテ・シロタ・ゴードンの訃報に接して



 今日の新聞に、ベアテ・シロタ・ゴードンの死が伝えられた。昭和を代表するピアニスト園田高弘を育てたロシア出身のピアニスト、レオ・シロタの娘。89歳。ただし、彼女が有名なのは、レオ・シロタの娘という理由ではなく、一人のアメリカ人として、現行日本国憲法の起草に関わり、特に女性の地位と権利についての条項を書いたからである。優れた語学力の持ち主で、幼い頃に10年間過ごした日本の言葉や、生まれた国(オーストリア)のドイツ語、父の祖国のロシア語など、6カ国語を自由自在に操った。彼女が、GHQに採用され、憲法草案の起草に関わったのも、そのことと関係する。

 10年近く前、講演のために仙台に来た。私は行けなかったが、その機会にと、自伝『1945年のクリスマス〜日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝〜』(柏書房、1995年)を読んだ。

 日本が提示した憲法草案があまりにも稚拙であったために、マッカーサーはGHQ草案を作って日本側に示そうと、たった1週間での草案作りを部下に命じた。彼女の自伝には、緊張に満ちた、憲法草案作りの場面が大変よく描かれている。彼女はその場の雰囲気を、次のように述べる。

戦勝国の軍人が、支配する敗戦国の法律を、自分たちに都合よくつくるのだなどという傲慢な雰囲気はなかった。自分たちの理想国家をつくる、といった夢に夢中になっていた舞台だったような気がしている。」

 確かにそうだろう。アメリカ人だって、決して政治や社会に対して何の不満もなく生きていていたわけではないはずだが、既にシステムとして完成し機能している自分の国をいじることは難しい。しかし、日本の社会をゼロから作るという時に、そこに自分たちの夢を投影させようというのは自然である。理想的民主主義、国際平和主義への憧れが、GHQ草案を作った人たちの中には間違いなくあった。

 彼女は、日本で見た「男性の後をうつむき加減に歩く女性」「子供が生まれないというだけで離婚させられる女性」「法律的には、財産権もない女性」「子供と成人男性の中間的存在でしかない日本女性」の姿を念頭に、「これを何とかしなければいけない。」「女性の権利をはっきり掲げなければならない」との思いで、仕事に没頭する。結果として、彼女が憲法に盛り込もうとした具体的規定の多くは、憲法というものの性質を考慮して削除され、理念の柱とも言うべき部分だけが今のような形で生き残った。

 草案を日本語に直すに当たって、「日本流の術語を使うように」という指示に、彼女は「人権という概念の無い日本に、日本式の術語でどれだけ豊かな表現が出来るか?自信など持てそうにもない。」と述べる。ここにも当時の日本の状況がよく表れている。

 討議を行わせ、質疑にも応じるが、最終的にGHQは、この草案を受け入れれば、天皇は安泰だ(=受け入れなければ、天皇の存在は保証出来ない)、というようなことを言って、日本側に草案を呑ませる。彼女も、それは「日本側にとっては脅迫に近いものだった」と書いている。

 憲法が問題になるたびに、いわゆる「タカ派」的な人たちは、それが「押しつけ憲法」であると批判する。上のような「脅迫」を経ているとすれば、それは決して嘘でもない。しかし、当時の日本に自由と平等に立脚した近代国家を作る能力があったかと言えば、それは決してそうではない。日本はこの憲法から、戦後非常に多くのものを得てきたと思う。戦後67年を経て、社会(民意)が成熟したから、改めてより高い次元の憲法を作ろうと改憲が叫ばれるかと言えば、これまたそうではない。むしろ、夜郎自大の貧しい心性を持つか、戦前を引きずり、民主主義の理念をよく理解出来ていない人が、成長して憲法の精神に追いつくことが出来ないままに、現行憲法を「押しつけ」を口実として排除しようとしているものと見える。

 現行憲法とその成立の舞台裏には、ベアテが描いたような若々しい理想主義があるのであり、今私たちが為すべきは、心を常に真っ白にしてそのような原点に立ち返り考えるという作業ではあるまいか。それが出来て初めて、改正を口にすることが許される。生まれた時から、様々な権利が当たり前のものとしてあると疑わず、その恩恵をありがたく思うことすらないであろう多くの日本人の存在を意識しつつ、ベアテ・シロタ・ゴードンの生涯に思いを馳せたい。

 なお、彼女は自分の死に際し、供物で弔意を示したい人は、代わりに護憲団体「九条の会」に寄付して欲しいと遺言したそうだ。見事である。合掌