集団的自衛権考(2)



2)集団的自衛権の問題を、集団的自衛権の問題でだけ考えてはいけない。安倍政権が誕生以来何を目指し、何をしてきたかということを考えると、特定秘密保護法の制定(←これはやっぱり大きい)、教育委員会制度の改悪をはじめとする教育の中央集権化、靖国神社の参拝、と、中央の権限強化、戦前復帰とも言える施策や行動、提案といったことがすぐに思い浮かぶ。アメリカとの関係で言えば、普天間基地辺野古への移転(固定化)を推し進め、リニア新幹線技術の無償供与を申し出るなど、よく言えば「同盟関係の強化」、悪く言えば「ご機嫌取り」が一貫した姿勢である。この文脈の中での「集団的自衛権」であることはよくよく考えなければならない。

3)首相の頭の中には、常にアメリカという国の存在があると思うし、多くの日本人が、尖閣諸島で有事の際に、アメリカと一体になって領土を守るということが思い浮かぶことだろう。そもそも、集団的自衛権の行使は日本の周辺に限定されないが、たとえ日本周辺だけに限定して考えるとしても、アメリカがなぜアジアに軍事展開しているのか、ということを考慮する必要がある。アメリカ人の平和と安全にはあまり結びつきそうにない。決して、善意で日本を守ろうとしているのでもない。それは、アメリカが日本に対する戦勝国であり、共産主義陣営(ソ連)と資本主義陣営(アメリカ)が、それぞれの勢力争いをしていたことの延長線上の行為だ。アメリカがアジアの「平和と安定」を求めるのは、あくまでもアメリカの利益のためである。だから、集団的自衛権の行使が必要となるのは、アメリカの利益を守るための戦争に巻き込まれる時である可能性が高い。

 実際、『河北新報』にあった、過去に集団的自衛権が行使された事例を見てみると、それなりに納得できるのは湾岸戦争イラクによる侵略からクウェートを守る)くらいであって、他は非常に怪しげな、侵略行為と言ってよいものばかりである(ベトナム戦争、米ソによる二度のアフガン戦争、チェコ動乱、ハンガリー動乱など)。米ソの利益のための軍事行動であることも見え見えだ。過去から将来を予測する限り、本当に自国民の生存のために集団的自衛権が行使される可能性は低い。

4)集団的自衛権に限ったことではないが、武力を行使できるようにしようということは、敵国の存在を予想し、攻められるかも知れないという不信感に立脚することである。敵意には敵意が反作用として発生する。それを否定することは、「きれい事」だと言われるかも知れないし、日本国憲法を根拠とすれば「押しつけ憲法」だと言われるかも知れない。だが、私は、緊張感を持ってパワーバランスを維持するという永遠の労役を脱して、9条を堅持し、日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」という理念を大切にし、信頼関係に立脚して、内側から支えられた平和を作る方向で動くのが、やはり「本物」だろうと思う。現実はもちろん厳しい。だが、少しずつそちらへ向けて動かなければならない、と思う。わざわざ逆行させてはならない。

5)個別的自衛権で対応可能だという意見もあるとおり、集団的自衛権を認めるかどうかは、国の防衛についてのゼロか100かの議論をすることではない。ここは誤解してはいけない。


 テレビで、首相が自信満々の顔で演説しているのを見ると、何とも嫌な気分になるのであるが、かといって、安倍晋三なる人物を恨む気にはならない。この1年半以上にわたって、たくさんの問題行動を取りながら、内閣支持率は50%超の高止まり。各種選挙でも自民党は連戦連勝。今回の破廉恥な「解釈改憲」だって、それをしたから支持率が落ちるとも思えない。首相の言動は極めて非民主的・非立憲主義的だが、そんな人間を首相に選び、支えているのは国民だ。「民主主義のいいところは、必ずしも最善の決定ができるということではなく、悪い決定が行われてもあきらめが付く」という言葉を、最も必要とし、繰り返し心の中で自分に言い聞かせているのは私自身である。(完)