集団的自衛権考(1)



 集団的自衛権問題が大詰めを迎えている。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(以下、懇談会と略)なるものの答申が出たからだ。これはくだらない出来レースである。首相の意向に沿った答申をする「お友達」だけをメンバーに選び、いかにも第三者によって公平に審議されたかのように装い、出てきた結論の一部を、その直後に「政府見解として採用できない」、と否定することで、懇談会の答申を鵜呑みにするわけではないことをアピールする。

 夜のニュースで、安倍首相が説明するシーンも見た。私の感想は、今日の『朝日新聞』にあったのと同じで、情に訴える、非常に感情的なプレゼンテーションだった、ということだ。日本人を救助してくれたアメリカの艦船が他国の攻撃にさらされた時、それを放置するのか?首相が例示した「日本人」を、自分の家族に重ねて感情移入すると、もうその人は首相の論理から逃れられない。これは、「オレオレ詐欺」にだまされる時の心理と同じだ。一度「大変だ!!」と思ってしまうと、そこを中心にしか思考は回転しなくなる(これについてはリアルな私の失敗談がある)。アメリカの艦船に救助された家族をどうする、という心配は想像できるが、なぜその時、家族を救助してくれたのがアメリカの艦船なのかということも、その船を守るために攻撃して戦争に巻き込まれた時に、どれほど多くの人が辛く悲しい思いをするかということにも思い至らない。あのプレゼンテーションにだまされる国民はアホだ、というよりも、首相が上手いと思う。背後に誰か、プレゼン(この場合は人を欺くこと)のプロが付いているのだろう。

 ところで、私は、集団的自衛権国際法上認められているということは知っているし、日本の周辺の、特に中国の動きは現在の日本政府以上に「破廉恥」という言葉が似合うほどデタラメで危ない、ということは分かっている。「危険だから守る」「現実を見よ」という発想であれば、集団的自衛権を行使できるようにしようという動きは、極めて理解しやすい。

 しかし、やはり是か非かと問われれば、間違いなく「非」を選ぶ。理由は以下のとおりだ。(番号は重要度の高い順、とは限らない)

1)首相は当初、憲法改正を目指していた。それが難しいと知るや、内閣法制局長官の首をすげ替え、砂川事件判決の理解もねじ曲げて、解釈変更によって、やりたいこと(自分が必要だと思うこと)をできるようにしようとした。いわゆる「解釈改憲」である。集団的自衛権もそのひとつだ。本当に国の存続に関わる重大な問題であれば、こんな姑息な方法でなく、やはり改憲を目指すべきであって、それが実現しないなら、国民的な合意形成ができないとしてあきらめるべきだ。民主主義のいいところは、必ずしも最善の決定ができるということではなく、悪い決定が行われてもあきらめが付く、ということにある。憲法改正が実現せず、集団的自衛権が行使できないという縛りによって、国が危機にさらされたとしても、それが民意なのだからいいではないか。

 更に言えば、憲法第9条がある種の理想論であって、現実的でないことを多くの人が知りながら、なぜその変更をためらうかと言えば、9条があってさえ、これほど軍事力が強化でき、自衛隊の海外への派遣も可能になるなどの事が起こるのだから、9条を変えたら、更に解釈が拡大されて戦争に近づくだろうとの危惧があるからだろうと思う。つまり、自民党政府に一貫して、できるだけ戦争はしたくない、絶対に戦争はしない、という気持ちが見えないのが問題なのだ。口先だけではなく、太平洋戦争の教訓を社会に生かそうという不断の努力、軍備を最少限にしようという真剣な姿勢が見えるのなら、9条を現実的なものに変更し、自衛のための軍隊を組織すること、更には集団的自衛権を行使できるようにすることさえ、もっともっと容易だろうと思う。(続く)


(補)会見の質疑応答で、首相は「自衛隊武力行使を目的として他国での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と述べた。首相の言葉の中で、私が最も違和感を感じたものだ。集団的自衛権の発動のみならず、いついかなる場合であっても、「武力行使」そのものが目的になることがあるなど考えられない。そんなことをわざわざ否定しなければならない人の心の奥底には、一体何があるのだろう?という猜疑心を私は持ち、どんなきれいな言葉も信じることができない。