復興と自然公物保護



 昨日、防潮堤の話を書いたところ、偶然、『河北新報』の「持論時論」欄に、千葉一という人の〈復興と自然公物保護〉という文章が載っていた。これが、さすが大学の先生、簡潔明瞭にして、歴史的な背景にまで話及ぶ非常に立派な文章だったので、取り上げておこうと思う。石巻在住の東北学院大学講師だという。比較的身近な所にこんな人がいたんだ、と驚いた。本当は全文を引きたいところだが、著作権の問題もあるかも知れないので、一部を載せる。

「海岸や河川、砂浜、磯場、干潟、湿地、湖沼などは「自然公物」と呼ばれ、公の共有物です。当然そこには、常に「公」の視点からの使用・管理・保全などの配慮が求められます。そこで暮らす社会集団・地域住民への十分な配慮、利害関係の調節も不可欠です。」

       (中略)

「しかし、3・11の震災後、復興の名の下に、自然公物に関する住民参加の方向性や環境アセスメントの適用はかき消されています。巨大防潮堤建設に代表されるような国家主導の復興が上から押しつけられ、惨事に便乗し経済再生を優先させる、全体主義的な様相を呈しています。震災復興が80年代以前への逆行、あるいは土木建設分野の巻き返し運動としての性質を持っているようです。」

 恥ずかしながら、私は「自然公物」という言葉を初めて知った。たいへん使い勝手のいい言葉に思える。再び大きな津波が来た時に防ぎ止める、それも「公」ではあるけれども、そこにもともとあった「自然公物」を守り、利用することも「公」である。大局的な視野に立って、それをどうすることがより一層「公」としていいのか、自然と人間との関わりについての歴史的教訓にも基づいた冷静な議論が必要だと思う。

 私たちは、「見識が高い」という言葉を、あまり厳密に意味を考えることなく気軽に使う。「見識が高い」とは、どういうことなのだろう?私は、見識が「高い」ための条件は、時間的な射程が長いことだと思っている。時間的射程を長くするとは、今どうするかという議論をする中では、より遠い将来を視野に入れるということに偏りがちだが、そうではあるまい。より遠い過去に基づいて考えることも見識の高さに関わる重要な要素である。「経済再生」「土木建設分野の巻き返し」は目前の利益の問題として話にならないけれども、大きな津波があったとなれば、津波対策が他の何よりも優先する、津波との関係でしかものを考えられないというのもまた、典型的な「見識の低い」状態である。

 千葉氏は、住民参加、住民自治の実現によって「持続可能な社会」へと向かうことを訴えている。だが、その言い回しは慎重である。結びを正確に書くなら、「この復興の試練が、「民主主義の根本である住民自治を実現し、持続可能な社会へと向かう生みの苦しみであった」と、いつか言える日が来ることを願っています。」となっている。住民自治そのものが、直ちに実現するものとは考えられていない。住民自治という民主主義の根本や、持続可能な社会の実現は、生みの苦しみを伴うものとして考えられている。

 私が目にしてきた復興の意思決定過程は、政治や行政だけでなく、住民の側にも非常に大きな問題があった。政治・行政は、門脇小学校と石巻小学校を統合するかどうか、といったことについては住民の意見をも聞き、それなりに議論を尽くそうともするのに、なぜか巨大防潮堤などの大土木工事については、復興計画が示された最も早い時期から、ほとんど既決事項として議論の対象とされて来なかった。一方、いろいろな説明会で住民が見せたむき出しのエゴは、政治家と同様の見識の低さを露呈するものだった。住民参加、住民自治が実現すれば、上手く行くかと言えば、そう単純な話ではないのである。

 政治家任せには「生みの苦しみ」がなく、それ故に民意も育たない。その代償として、私たちは多くの自然公物を手放さざるを得なくなっているのかも知れない。自然公物を破壊する巨大土木工事を拒否するために、その「生みの苦しみ」を引き受ける覚悟があるのか?「生みの苦しみ」を避けているから、政治家主導で土木工事が強引に行われているのではないのか?そんなことが問われているようだ。