環境問題解決のための机上の空論(1)



 昨日の続きみたいな話。

そうこうしているうちに、今日は、我が石巻でも「観測史上最高」が出た。雄勝(おがつ)の1時間当たり雨量が54ミリで、8月としては観測史上最高なのだそうだ。我が家のある市の中心でも、未明から雷を伴った強い雨が降った。道路はあちこちで冠水、JRも止まり、高校の授業も3時間目から、となった。石巻は大丈夫、などと安心してはいられない。

 さて、温暖化の問題からしても、資源を細く長く使うという資源管理上の問題からしても、一刻の猶予もなく経済活動を後退させることはどうしても必要なのだけれど、それをスムーズに行うのは「合意」という最も大変な部分を無視したとしても、なかなかに難しい問題であることは私にも分かる。しかし、それを横に置いておいて議論をするのはフェアではないので、いささか思うところを書いておくことにする。

 経済活動を後退させるということは生活の質を落とすことであろうが、どういうことなら我慢できるかということは、一人一人バラバラなわけで、にわかに優劣はつけられないから、何を止めろ、とは軽々しく言えない。まぁ、私の感覚だと、自家用車と飛行機と軍隊(自衛隊)が最大の悪、他は宅配便、自販機、コンビニ(24時間営業の店)、過剰な使い捨て容器(ペットボトルにしても弁当箱にしても)といったあたりが悪の代表格なのだけど、それが私の主観(価値観)である以上、仮に絶対的な権力を持っていたとしても、やはり、それらを止めろと一方的に縛ってよいかどうかは怪しい。

 そもそも、経済活動を制限しなければならない理由は、温暖化にブレーキをかけることで、温暖化にブレーキをかけることは、化石燃料の消費を抑制することなのだから、化石燃料に相当な率で税金をかけ、間接的に縛ることで産業と消費の変化を促すのがよいだろう。ガソリンが1リットル160円などというのは、実にケシカラン話で、そんな安価にガソリンが買えるからこそ、人はガソリン(石油)の価値をその程度だと誤解するのだ。人類が一度消費したら、ほぼ永久に再生できない貴重な化石燃料である。本当は値段など付けること自体が間違いに近い。金額で価値が置き換えられ、その金額を払えば、何をしてもいいというのは、貨幣経済が生んだ由々しき誤解である(10億円でゴッホの絵を買い、俺が買ったんだから俺の自由だ、と言って、その絵を燃やしてしまうことが許されるか?という事例を考えてみるとよい)。値段は極めて便宜的なものに過ぎない。

 漁船や農作業機械といった、食糧生産に直結する所と鉄道・路線バスで使う石油だけは、むしろ今よりも安くし、各家庭にも必要最低限と思しき石油を配給し、それ以外は今の2倍3倍、いやそれ以上の値段にしてしまえばいいのだ。それでも極論だというのなら、車のガソリンも、一人当たり1ヶ月10リットルとかを今くらいの値段で配給し、それ以上欲しければ1リットル500円、などという方法もある。

 もちろん、車を手放す人は増え、自動車産業はガタガタになる。飛行機も、生き残るのはごく少数であろう。24時間営業の店も自販機も消え、宅配便もなくなる。どうしても必要なもの以外、土木工事は行われなくなるだろう。日本の経済は大崩壊だ。

 しかし、それによって地域の商店はものすごい勢いで復活するだろうし、公共交通機関も息を吹き返す。海外に代わって、国内の旅行需要が増えるかも知れない。修理を生業とする人も少しずつ増えるだろう。土木工事でも、機械に頼っていたことを人力に置き換える場面が出て来るだろうし、実際そうすべきだ。人間は、生きていくためには知恵を働かせるものなので、案外いろいろな方法を考えては上手く生きていくような気もする。今をときめく情報通信産業は、直接的にはあまりダメージを受けないだろうが、そういう所には重税を課して、社会内での分配調整を行うことがどうしても必要だ。

 とまあ、いろいろなことを考えてはみるが、具体的な数字がないので説得力が無い。石油の値段を10円上げるごとに、どのような影響が生じるのか。自動車産業が壊滅すると、何万人が雇用を失い、そのうちどれくらいの人が、公共交通機関や地域の商店といった、自動車が大幅減少したことで復活してくる産業に吸収されるのか・・・。いろいろな場合を想定しながらシミュレーションを行い、石油値上げ幅のさじ加減を調節していくことが大切だ。ただし、何をどうしても、文明=生活の豊かさ=化石燃料を燃やす、なのだから、今よりも収入が大きく減り、生活が貧しくなるのは避けられない。今のままの生活を維持、もしくは向上させつつ、温暖化も防止しようという虫のいいことを考えているから何も変わらないのだから、生存のために、そこは断然覚悟しなければならない。(続く)