「交通安全協会」の進化について



 昨日、運転免許の更新に行ってきた。適度な田舎はいいなぁ。15万都市ということで、運転免許センターがちゃんとある、にもかかわらず、人影はまばらで、作業は迅速に進む。何の面倒もなく、30分の講習も含めて1時間で、ICチップ入りとかいう新しい免許証を手にした。

 今回の更新で、変わったな、と思ったのは、「交通安全協会」という団体への加入が、本当に任意になったことである。これは本当にいいことだ。以前は、入るのが当たり前、よほど強い意思を持って、微妙かつ適切なタイミングで拒否の意思を伝えなければ、1年当たり500円だかの会費を払わなければならなかった。前回、ずいぶん煩わしい思いをしながら、私は意を決して「入会」を断った。今回は、その面倒な思いをすることなく済んだのである。

 私が交通安全協会への加入を断るのは、お金の問題ではない。その活動が気に入らなかったからである。もっとも、一度も決算報告書、活動報告書の類を目にしたことはないので、あまり確かなことは言えないのだが、私が甚だ不愉快に思っていたのは宣伝カーである。昔、仙台空港のある名取市に住んでいた時には、宣伝飛行機というのが飛んできたことさえあった。空港の近くかどうかに関係なく、現在、そこまで野蛮なことはさすがに行われていないようだし、宣伝カーも目にすることはほとんど無くなった。

 日本人の公共の場に対する鈍感さというのは、おそらく文化レベルの低さを表しているのだろう、と私は思っている。闇とか静寂といった公共物は、とことん大切にされるべきで、それらを破壊することは、個人が限られた空間の中でのみ許されるのが原則である。それ以上については、公共の利益との関係で本当にやむを得ない場合に限るべきだ。防潮堤で自然公物を破壊して気にならないことと、闇や静寂の価値を軽視することとの距離は近い。

 メディアが発達し、町内会レベルでもチラシ配布も回覧も可能で、学校ではHRや授業等での指導に加えて交通安全教室も行われている中、宣伝カーを走らせたり、街頭に立ってマイクで呼びかけるという行為がどうしても必要とは思えない。交通安全は大切だ→何かしなければならない→なかなか思いつかない→マイクを使って呼びかける、というのが発想だろうと想像する。効果があるかどうかはどうでもいい。何かをすること、頑張った気分になれることこそが大切なのだ。学校を含め、世の中で行われていることの中で、「余計なこと」は全てこのパターンである。自らお金を払って不愉快な思いをするのは変だ、スピーカーとマイクを持つ限り、私は交通安全協会にお金は出すまい、と思ったのである。

 交通安全の大切さは認識しているつもりである。しかし、上に書いたような「啓蒙」のための様々な方法がある中で、わざわざ「協会」を作り、会費をほとんど強制的に集めて活動する必要などない。まずは加入が本当の意味で「任意」になった。もちろん、そこには高邁な思想などなく、任意と言いつつ強制に近い入会の求め方に対して、批判が多く寄せられた結果だろうとは思うが、私にとっては結果オーライ、立派な一歩前進である。次に期待するのは、入会者の激減→資金不足→宣伝カーなどマイク・スピーカーの廃止、だ。