「土俵から下りろ」・・・もうひとつの問題

 京都府内で大相撲の巡業が行われた際、土俵上で倒れた市長の所に救命のために女性が駆けつけたが、女性は土俵から下りろという場内アナウンスが流れた、というのが大きな問題になっている。救命と伝統とどちらが大事なのか?!といった批判がずいぶんたくさん寄せられているらしい。
 相撲協会の説明によれば、「若手の行司が周囲の観客から上がった「女性を(土俵に)上げていいのか」という声に、慌てて反応した末に発してしまった」とのことである。その後、女性を力尽くで引きずり下ろしたわけでもなし、あまり大騒ぎしすぎない方がいい。絶えず「何か言われるのではないか?」と人をびくびくさせ、社会全体の萎縮傾向を強めるだけだ。
 と言いつつ、私も批判めいたことを書くのは申し訳ないのだが、私が感じた問題はそのような批判とは少し違う。誰も言わないことなので、少し書いておこう。
 それは、土俵の周りに相撲協会の関係者がたくさんいたにも関わらず、館内放送で注意が促されたという点についてだ。昨日書いた車内アナウンスと同じなのだが、近くにいる人間が注意すればいいだけなのに、明らかにそれよりも効果が低いと思われる放送という手段が用いられている。
 なぜだろう?おそらく、相撲協会や鉄道だけでなく、世の中全体の傾向として個別の直接的なコミュニケーションを取ることが苦手になっている、もしくは避けるようになっているからではないか?だからこそ、「若手の行司」だって、土俵のすぐそばにいたはずなのに、マイクを握って注意を連呼するしかなかったのだ。
 コンビニでもスーパーでも買い物はドライだ。家族とのコミュニケーションも、スマホを使ってのメールやラインだ、という話を時々聞く。おそらく冗談ではないだろう。無駄に豊かで、人と関わらなくても生きていける世の中なものだから、煩わしい人間関係はひたすら避ける。そういう生活の延長に、目の前で起こっている出来事に対しても、マイクを握って反応するしかない、という心性が養われるのではないだろうか?観客の一言で、とっさに「下りろ」と叫んでしまうよりも、そちらの方がより一層根の深い社会現象のように思われる。
 バスや電車の中で席を譲ることは難しい。外国にいると簡単にできる。日本において、車内で隣り合わせ、向かい合わせに座った人と会話をすることは稀である。外国だと、先進国であっても、少なくとも日本よりは自然に会話ができる。これもまた、近くの人にマイクで注意を促す心性と関係するのではないだろうか?となると、それは単に文明だけでなく、日本人の国民性と関係することになる。プライバシーとか個人情報とか言って、むやみに個人というものを隠したがる最近の傾向も同様かも知れない。必死になって心臓マッサージを施す女性に向かって、館内放送が注意を促す映像を見ながら、そんなことを考えていた。