励まされたのは「DeNA」?



(11月8日付け学級通信より)


 楽しみにしていた日本シリーズも終わってしまった。地元・楽天が優勝できて、まずはよかった。感想は二つ。

 一つ目。第6戦で田中が負けた時、私も、もうダメだ、と思った。この日勝って日本シリーズ終了、という思いは、誰もが強く持っていただろう。気分は極限まで高まっていた。こういう時、気持ちを切り替えるのは、口で言うほど簡単なことではない。「まだ優勝のチャンスはある。次こそは頑張らなくては・・・」と誰でも思う。しかし、頭で考えるのと、心・体は別である。「でもやっぱり、もうダメなんじゃないか?」という弱気の虫が少しでもあると、多分勝てない。楽天の選手達は、精神的にタフだったようだ。私は、それを偉い、と思った。

 二つ目。私は何事においても、常に「舞台裏」が気になる人間である。優勝してスポットライトの当たる瞬間、熱狂的な賞賛を受ける人たちの後に、そこに至るどれほど膨大な時間があり、どれほど多くの顧みられることのない裏方や、移籍・引退した、あるいは二軍で苦しむ選手達がいたことか、と思う。球団創設の時に、どう考えても損な選択をして、勝てるはずのない楽天に来てくれた岩隈のコメントは、どの新聞にも見えなかった。塩見や永井といったピッチャーは、どこで、どのような思いで優勝の瞬間を見ただろう?努力は常に報いられるとは限らない。報いられたひとつまみの人だけが、私たちの目には見える。だが、水面下の部分があるからこそ、氷山は浮かんでいられる。

 ところで、被災地の球団ということがよく言われ、選手や監督も被災地の人々のために、みたいなことをよく口にするが、私は、今回の楽天の優勝で最も励ましと勇気とを与えられたのは、ほとんど万年最下位に近い同じプロ球団「DeNA」だと思うのだが、どうだろう・・・?


【制服はあくまでも制服である・・・時と場所】

 この1ヶ月(半月?)の間に、久々に短ランを2着没収した。しっかり約束(通知)してあったことなので、まさか文句はあるまい。

 私はファッションとか服装による個性の表現はとても大切だと思っている。問題は、「制服」がそれらと相容れない、ということだ。制服というものは、何の工夫もなく、形通りに着るのが正しい。私服とは、機能と目的がまるで違うのである。

 駅員さんや、飛行機の乗務員が、制服を改造したりだらしなく着ている(ネクタイを短くする、緩める、ワイシャツを外に出す)など、諸君でさえ想像できないだろう。それと学校の制服は違う、という理屈が成り立つわけがない。

 かつて制服セミナーで、「On time」「Off time」という話があったのを憶えているだろうか?学校は「On time」、家に帰れば「Off time」。これの区別が曖昧だというのは、何事においてもケジメがつかないということであり、ケジメがつかないというのは、学校が勉強の場所にならない(学校でも勉強に専念できない)、ということだ。諸君ももうすぐ社会人。これくらいのことは分からないと本当に困る。


(他の記事、省略)


(裏面:11月2日付け『朝日新聞』土曜版「be」より、「サザエさんをさがして〜カメラ」を引用

平居コメント:いつだったか、「エロ本でも時間が経てば史料に変わる」という話をしたのを憶えているかな?実は、この連載、とても長く続いているのだが、昔のマンガは本当によくその時代を映し出しているなぁ、と、私はいつも感心しながら熱心に読んでいる。どんなものでも史料に変わる、の典型であろう。)