会議で意見を述べるということ



 今日、ちょっとした職員会議があった。私を含めた何人かが発言をしたが、その中に、珍しく(本当に珍しく!)二人の若い先生が含まれていた。会議の終了後、私が一歩遅れて職員室に戻ると、その若い教員を、M先生が盛んに褒めている最中であった。発言の内容についてではない。発言したこと自体にである。M先生は、すこぶるご機嫌である。私も二人を褒めなければ、と思っていたところだったので、M先生に先を越されたな、と思った。

 最近の職員会議は、発言が非常に少ない。発言をせずに黙り込んでいる人の心理は、私なりに考えるに、以下のようなものではないだろうか?

1:忙しいから、とにかく早く終わって欲しい。

2:どうせ最後は校長が決めるんだから、わざわざ発言する必要がない。

3:どのような意見に付くのが得か、模様眺め。

4:本当にどうでもいい。

 1990年頃、政府(教育行政)が日の丸・君が代のごり押しをしてから、職員会議は発言が激減した。このことは火を見るよりも明らかなので、重要なのは2である。「言っても無駄」という倦怠感の強さは、本当に深刻だ。同じ時期、「初任者研修」なるものが始まり、新任教員は、採用1年目に「お上への絶対服従」をみっちり仕込まれるようになった。「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」の徹底が求められるということは、自分の意思で動くな、ということである。そうなると、当然のことながら、自分の意思など始めから無い方が楽だ。かくして、職員会議から議論が消え、特に若い人たちは口を開かなくなった。

 私は、昔ほどではないが、他の人に比べればよく発言する。連絡事項のようなものは別として、それなりに判断が必要な案件の95%は、私の考えと違う結論になるのだし、教育や人間の本質に関わるような重大問題ほど、私の考えと会議の結論は食い違うことが今や分かっているわけだから、それこそ「言っても無駄」である。にもかかわらず、私がわざわざ発言するのは、自分の考えを受け入れてもらいたいと言うよりは、自分を免責したいからである。私の意見が結論に何の影響も与えなかったとしても、黙っていれば賛成したのと同じこと。しかし、私が見た所、教育政策や学校の在り方は、ひたすら悪い方向へ向かってばく進している。それを黙認することによって共犯者であるとの罪悪感を持つのが嫌なので、反対した(違う意見を述べた)という事実を残し、自分自身を救済したいのである。だから、発言はするが、議論が自分の意思から遠離って行っても、しつこく粘ったりしない。ほとんど言いっ放し。「私はちゃんと言ったからね」という安心を得て、あとは黙っている。ずるいやり方かも知れない。ただ、あと何年か経って、学校と社会とが破綻を迎えた時、「やっぱりあの時、平居の言ったことこそが正しかった・・・」と思ってもらえる可能性が少しはあるだろう、それでいいや、と思っている。

 私は、「会議が多い」とか「長い」という文句を言うことも多い。一方で、人よりもよく発言し、場合によっては、私が口を開くことでもめ始めるわけだから、「会議が長い」は勝手な言いぐさだ、と思っている人もいるかも知れない。私自身も少しそう思っていた。だが、最近、少し違うとも感じている。司会者が意見を求めているのに、ほとんどの人が黙っているから、生産的でない沈黙が増え、会議が延びるのではないか?逆に、後から後から発言があれば、問題点はすぐに明瞭となり、みんなの考えの方向性も見えてきて、早く結論にたどり着けるのではないか?そう思う。また、会議というのは結論さえ出ればそれでいいというものではなく、意見を交換する中で、出席者が啓発し合えるという重要な機能を持つ。この点でも、発言の無い会議はコストパフォーマンスが悪いと言える。

 ともかく、今日、珍しく若者が発言したことは、なんだか明るい希望を感じさせる出来事だった。彼らの意見も、私と同様、会の最後に示された結論(校長決裁)とは違っていたけど・・・。