若いということ



 昨日の夜、NHKに伊勢正三南こうせつが出るというので、家人の寝静まった後、テレビを見ていた。柄にもなく、私は彼らが大好きである。「22才の別れ」なんて、本当に名曲だなぁ、と思う。高校時代は、友人たちと一緒によく唱った。私が尊敬する音楽家は、「ベートーベンと伊勢正三」などと言っていた時期さえあった。

 伊勢正三は私より11歳(ついでに南こうせつは13歳)年上なので、「同じ世代」と言うにはためらいを感じるが、やはり、大雑把に言って「20世紀後半」に同じ空気を吸っていた者だけが持つような、安心感があるような気がする。恋愛感情などというものに新しいも古いもなく、だからこそシューベルトシューマンの歌曲にも共感できるはずなのだけれど、どうも最近の若者の言動には違和感を感じることが多い。私には、彼らの歌に滲み出ているような純情と陰影こそ好ましい。

 彼らの歌が、20世紀に青春期を過ごした者にだけ訴えるものなのか、もっともっと普遍的な、世代を超えた価値を持つものなのかは、その時代の中にいた私には判断できない。今後、彼らの音楽が長く生き残るかどうかによって明らかになるのだろうが、私にとってはどうでもいい。

 違うような、同じような話。

 昨日、組合の会議があって仙台に行った。用事が終わって外に出、県庁前のバス停に向かって歩き始めた時、「平居さぁ〜ん!」と呼ぶ声がするので振り返ると、Wさんであった。尊敬すべき小学校の教員で組合の役員(今もかな?)であると同時に、前任校の生徒保護者である。

「お久しぶり!うちのYがいつもお世話になって・・・」

「???・・・もう世話なんかしてないよ。Y元気?」

「なんだかよく分かんないけど、大学休学して旅に出ちゃった・・・。ブログで旅のことずいぶん書いているみたいだから、暇な時、覗いてやって・・・。「世界の社窓から」って探せば出てくると思うんだけど・・・。」

 へえ!?Yが旅に出たとは恐れ入った。私は、興味津々、帰宅すると早々に「世界の社窓から」を探し、そして2時間あまりかけて一気に読んでしまった。

 残念ながら、「旅」は進行形ではない(?)。一昨年、2012年12月11日にスタートし、ブログは2013年5月23日に人生論のようなことを長く書いたきり終わっている。その記事はインド・バラナシで書かれているらしく、「旅」は終わっていないのだが、その後どうしたのかは分からない。Wさん、その後を教えてくれたらよかったのに・・・。まさか、父親が、その後半年以上、息子が帰国したかどうかさえ分からない、ということもないだろう。

 ともかく、私が、そのブログを一気に読み切ってしまったのは、面白かったからである。旅先にPCを持って行って、Wi−Fiというものを使って随時更新するということに、時代の変化を感じて驚いたのも確かだが、現地での更新というのは、臨場感が違うな、と思った。トイレの写真を一貫した軸にするアイデア(含着眼点)も優れている。だが、最も重要なのは、「若さ」に満ちているということであり、それがひどく健全なものであったことだ。『地球の歩き方』に表れた高級志向を疎ましく思いつつ、今時の若者はハングリー精神を持たず、「バックパッカー」という言葉すら死語になりつつある状況があるのではないか?と、悲観的な想像をしたりもしていた私は、なんだか救われたような気持ちにさえなった。

 そのブログに描かれた世界には、通信手段が発達し、ブログの更新も安宿の予約もできてしまうというということを別にすれば、正に本来の「バックパッカー」の姿があり、素直で寂しがり屋で、好奇心に満ちた青年の姿があった。表現の幼さ新しさも、そんな若さをうまく伝える効果を持っているようだ。私がYを知っているからそう思うのだろうか?いや、そうではないのではないか?

 今のところの最終回となっている昨年5月23日の記事には、Yが、自分自身の力で少しずつ真実と人生とを見出していく様子がよく表れている。「いいやつ」ではあったが、家が近いのに欠席が多く、授業中は寝てばかりいたYだったが、時間の経過と、本人の何かしらの意識とによって、間違いなく本物の人間になりつつある。そんな姿が頼もしく、嬉しかった。

 「22才の別れ」の時代から、多分、人は変わっていないのだ。