一昨日書いたとおり、沢木氏は1973年にインド~ヨーロッパを旅し、『深夜特急』を1983年から書き始め、1992年に完結させた。『旅する力 深夜特急ノート』で『深夜特急』が完結したとするならば、それは2008年にまで下る。旅から実に35年だ。
なぜ文章化するまでにこれほどの時間がかかったのか、ということは、文庫版第5巻巻末にある沢木氏と高田宏氏の対談や、『旅する力』の中で問題とされる。どうやらその理由は二つあったようだ。一つは、自分の旅を描くのに適した文体を発見できずにいたこと。そしてもう一つは、誰かによって発表の場が与えられるということだ。その二つの条件が整ったのが10年後、ということである。長い時間が経過したことについて、沢木氏自身は、次のように書いている。
「もしかしたら、旅から長い時間が経っていたということは、マイナスよりプラスの方が大きかったかも知れない。自分の旅を読み直すというときの、その読み方が深くなった可能性があるからだ。時間が自分の旅をいくらか相対化してくれ、主人公の「私」にたいしてほんの少しだが距離を取らせてくれることになった。まさに、それは時間の効用とでもいうべきものであったろう。」(『旅する力』第4章)
高田宏氏は、対談の中で、芭蕉の『奥の細道』を話題にする。芭蕉は46歳の時に奥州・北陸を旅し、『奥の細道』を作品として完成させたのは、51歳の時であった、芭蕉は後から作品化していくという作業をしたのだ、と。沢木氏はそれを聞いて、「実は、十何年もたって旅を文章にする意味は何なのか、と聞かれた時に答える論理的な構えがなかったんですが、それを伺って励まされました。」と応じている。
旅は旅、作品化は作品化だ。当然ながら、文章化する時に、旅先での体験の全てを書くことはできない。取捨選択という作業が必要になる。それは、歴史の叙述と同じ作業ではないか。
「過去は、過去のゆえに問題となるのではなく、私たちが生きる現在にとっての意味ゆえに問題になるのであり、他方、現在というものの意味は、孤立した現在においてではなく、過去との関係を通じて明らかになるものである。したがって、時々刻々、現在が未来に食い込むにつれて、過去はその姿を新しくし、その意味を変じていく。」(E・H・カー『歴史とは何か』岩波新書。清水幾多郎による「はしがき」)
作品『深夜特急』は、1973年の旅ではなく、1983年以降の沢木耕太郎を描いているとも言えそうだ。
ところで、今回、沢木氏と私の間にはずいぶん多くの共通点があるように思われた。若い頃に小林秀雄に傾倒していた時期があるといった、旅行とは関係ありそうにもない点から、旅行の出発点が均一周遊券による東北旅行で、夜行列車を宿泊場所代わりにしていた点(→そんな記事)、『深夜特急』の旅で、夜行バスに乗ったことを、その間の景色が見られなかったことで後悔している点(「旅行は線」主義)、小田実『何でも見てやろう』の評価、などである。いや、何よりも海外における旅のスタイルがとても似ている。
もっとも、私は「バスよりも鉄道」派で、その点は沢木氏とまったく違うし、特に海外を旅行している時には、2点間の移動時間が長くなりがちなことから、夜行もやむなしと考えていた。夜行で移動し、景色が見られなかったことは確かにもったいないが、後悔まではしていない。
それはともかく、これは偶然なのだろうか?いや、おそらく、偶然ではない。私は沢木氏よりも15歳若いが、おおざっぱに言って同じ世代の、海外の辺境部と言ってよいような所を、好奇心に任せて旅するような人間は、必然的に同じような行動を選択する、ということなのだろう。私はそんな自分の体験を重ね合わせながらしか『深夜特急』が読めない。そんな体験を持たない人には、『深夜特急』はどのように見えるのだろう?
沢木氏は、26歳で旅に出たが、それを「旅の適齢期」だったかも知れないと言っている。「未経験者が新たな経験をしてそれに感動することができるためには、あるていどの経験が必要なのだ。」とも言う(『旅する力』第5章)。その微妙なバランスが成り立っているのが「適齢期」であり、それが26歳くらい、あるいは20代だと言うのだ。正しいようにも正しくないようにも思う。私は今回『深夜特急』を読んで、久しぶりでそんな旅がしたい、と思う。「適齢期」を30歳も上回っている私は、今後、果たして本当に旅に出られるだろうか?
最近は、世界中で均質化・無国籍化が進んでいて、外国へ行きたいという意欲も、そのために低下していると思っていた。しかし、今回刺激を受けることで、頭に浮かんできたのは、中国のカシュガルからパキスタンのフンザへと抜けるルートだ。西安か上海から列車でカシュガルへ行き、そこからバスでイスラマバードに抜けられれば、シベリア鉄道はまた別として、私の旅行体験は、太平洋から大西洋までが一本の線でつながる。今、少しそんなことを考えている。(完)