罪を問うということ・・・少年への死刑判決



 2010年に石巻市で3人を殺傷した少年の控訴審判決が出た。一審どおり「死刑」である。事件を起こした当時18才だったこともあり、裁判員裁判による判断だったこともあり、何かと話題の多い判決だった。

 私は「死刑」廃止論者である。「死刑」が残虐な刑罰かどうか、とか、生存権や冤罪問題(冤罪の場合取り返しが付かない)、抑止効果といった議論以前に、身柄を拘束してある犯人を殺す意味がよく分からないからだ。危険な存在ではないし、死んで罪が償えるとも思えない。あるとすれば、復讐的な感情を満足させることだけではないかと思う。犯罪の抑止効果にしても、重大な殺傷事件を起こして10年か20年服役し、出所する者に、「次に同じような事件を起こしたらこうなるぞ」と言って、死刑の執行に立ち合わせでもするのなら、それなりに抑止効果はあるかも知れないが、そうでなければ、それほど重大な罪を犯そうという人間が、つかまった後どうなるかを冷静に考えていたりしないと思う。であれば、生涯服役させ、せっせと労働にいそしませた方が、よほど世の中のためになるだろうと思う。もっとも、例えば20才でつかまって、本当の終身刑(絶対に出所できない)に服すとなれば、その絶望感たるや想像を絶するもので(あくまでも私だったら・・・ということ)、「死刑」とどちらが残虐か、という気がするけど・・・。

 聞くところによれば、少年の生い立ちは不遇である。5才の時に両親が離婚、母親が他の男と再婚すると、疎外感を感じながら生活した。その継父も去ると、今度は、新たな男から暴力を振るわれた母親がアルコール依存症となり、少年に対して頻繁に暴力を振るうようになった。

 私も高校教員という立場上、いろいろな生徒に接し、いろいろな家庭内事情を見聞きしてきた。恐ろしいと思うのは、愛情欠損の子どもである。人間にとって、愛情を注がれるということがどれほど大切かということを痛感する。何歳くらいまでにどれくらいの愛情が注がれれば、人間が健全に成長できるのか、学説のようなものはあるのかも知れないが、私は知らない。ただ、私の直感によれば、おそらくは、小学校卒業程度までに深く愛された経験のない子どもは、人の気持ちが分からない人間になる。ある種の自己防衛反応が、人格として固定化される、ということなのではないだろうか?高校や大学、社会人になってから問題を引き起こしてそれに気付いた時、何らかの方法で修復可能なのかどうかは分からない。可能であるとしても、相当に難しいことだという想像はできる。

 8人の死刑を執行した谷垣禎一法務大臣が、昨年末の記者会見で「罪はもちろん憎むべきだが、(死刑囚は)非常にかわいそうな子供時代を送った者がほとんど。こういう生き方しかできなかったのではないかと感じさせる面もあった」と複雑な胸中を吐露したという。確かにそのとおりなのである。罪を犯した人間に罪を問うことは、その人だけに全てを背負わせることになる。もちろん、大人であれば、状況判断の中で、自分自身の生い立ちも含めた様々な問題に気付き、修正していく責任を持つかも知れない。そう考えなければ、甘えを助長するだけだということにもなるだろう。だが、決してそれで済まないこともあるのである。事件を起こした当時、18であったか、20であったかも、私にはひどく形式的な問題に見える。

 不幸な少年時代を過ごした子どもが、その後に重大な罪を犯した時、年齢に関係なく、両親が免罪されるのはおかしい。だが、その両親も、生育環境に何かしらの問題があったことが想像される。考えれば考えるほど、犯人だけに罪を背負わせるのは酷だ。

 「死刑」は、究極の責任押しつけである。刑務所内で何かしらの仕事を与え、それにいそしませることで社会に貢献する道を開いてやることは、「極悪非道な人間のクズにただ飯を食わせる」ことにはならない。出所はさせないまでも、本人の更正の度合いに応じて、刑務所内での生活を徐々に人間的なものに改善してやることはできるだろう。「死刑」を執行して一件落着したような気分になるのではなく、その長い人生を見つめながら、本人も社会も健全な人間の成長について真剣に考えることが大切だ。


(参考)コメントをくれたmariさんの関連記事→ http://canadalifeblog.blog.fc2.com/