内橋克人・小保方晴子・吉松育美



 この数日に読んだ記事から、三つ触れておこう。

 4月8日に『河北新報』に載った内橋克人の文章「日本 再び暗い時代へ 今の政治家“軍国少年” 頂点同調主義から脱却を」は、至極もっともなことを淡々と書いた、いわば平凡な文章であるが、いくつかの箴言と、彼の実体験に根ざしたリアルさで印象に残った。

 「ひとたび戦争となると(中略)、平時は穏やかに見える学究者たちも一転、効率よく人を殺すために学問的蓄積を動員する。」

 「被害者は加害者に、加害者は被害者に、それが戦争です。」

そして、彼が新聞記者として出発した時、教え込まれた「記者三訓」

 「自分の目で確かめろ」

 「上を向いて歩くやつに仕事師はいない」

 「攻める側にカメラを据えるな」

記者の心得というのは、学校の心得としてもそのまま通用する。おそらくそれは、「正しさ」を追求することにおける普遍的な姿勢なのだろう。


 二つ目はSTAP細胞。小保方さんの記者会見に、報道がこれほど過熱したのは、最初の「世紀の大発見」報道の反動として理解できる。昨日の会見についても、いろいろな科学者たちがコメントに書いているとおり、ひどく非科学的なものであって、あれでSTAP細胞の存在、あるいは彼女の業績を認めるのは無理な話だろう。

 だが、これでSTAP細胞自体が否定されたとも言えない。彼女がNatureに投稿したときに「何百年の細胞生物学の歴史を愚弄している」と掲載拒否された時と同じことが、今起こっているだけの話である。彼女の不手際があったのは確からしいので、話は必ずしも同じにはならないが、画期的な業績が、疑いの目で見られ、嫉妬によるものも含めて中傷されるというのは、むしろ当然である。もっと科学的に反論し、それこそ「世紀の大逆転」になるのか、未熟さ故の茶番で終わるのか、私なんかにはまだまだ分からないが、なんだかワクワクするほど楽しみだ。

 ところで、「掲載拒否」と言えば、理研の責任がとやかく言われている一方で、9ヶ月もかけて査読をしたNatureについて、誰かの言及が見当たらないのはどうしてなのであろうか?その報道自体がウソだったという話も聞こえてこず、だとすればNatureの責任や、その査読体制のお粗末さが批判されてもいいはずなのに・・・である。見方によっては、STAP細胞の存在よりもこちらの方がずっと不思議だ(←この査読の問題は、3月14日にも書いた)。


 昨日ネット(J−CASTニュース)で読んだ話、吉松育美が、「「慰安婦は売春婦だったので謝罪する必要はない」という意見も出ているが、生き残った慰安婦の証言を聞くとそうではなかったという意見もある。日本人としてこうした(謝罪の必要はないという)コメントを恥ずかしく、また謝罪することが問題とすら考えられているのに憤りを感じる」などと語ったことに対し、ネット上で大きな批判が湧き起こっている、というものだ。

 私は、読んだ時に意味が理解できなかった。従軍慰安婦への謝罪があってもよい、と考えることがなぜ批判の対象になるのだろう?私が記事の内容を誤解しているのではないかと、しばらく考え込んでしまったほどである。

 とりあえず、従軍慰安婦問題について事実は明らかになっていないとしよう。仮に、、従軍慰安婦が職業的売春婦だったというのが「事実」で、その「事実」を知らずに、「間違った」知識に基づいて意見を述べたとしても、それが政治家(閣僚級?)でなければ、許されるのは、前提となる「事実」認識に誤りがあることを、実証的・論理的に教えてあげる、ということまでだろう。まして、従軍慰安婦問題については「事実」認識に幅がある。だとすれば、そのどの位置に立って発言しようが、文句のあろうはずがない。

 報道されてはいないが、批判をした人の多くは匿名なのではないかと思う。匿名の意見など、暴走族の落書きと同じに違いないが、たとえそう思ったとしても、相手が見えないだけにかえって気味が悪いことは容易に想像できる。怖いのは、こうして起こる萎縮であり、それによって言論の自由が実質的に大きく制限されてくることである。

 批判している人々にとって、吉松育美は「自虐史観」の持ち主だということになるのだろうが、「自虐史観」などよりも、一面的な物の見方だけが大きな顔をして居丈高な態度を取り、その余波である無形の圧力で言論が制限されることの方が、はるかに恐ろしく大きなマイナスを生むに違いない。