野球か?家族か?



 5月20日の『朝日新聞』に面白い記事が載った。「FOCUS BASEBALL 2014」というコーナーの「選ぶべきは野球か家族か」という記事である。5月5日の中日対巨人の試合で、巨人の原監督が、父親の緊急入院を受けて欠場したことを受けて、プロ野球選手にとって家庭と試合の重要視のバランスはどうあるべきか、ということを論じたものである。もちろん、背後には先月埼玉県であった担任の入学式欠席問題がある。

 記事は、アメリカの事例をたくさん持ち出している。家庭に関するさもない事情で、変な時期にふいと帰国してしまう外国人選手が時々いるので、私もなんとなくそうは思っていたが、アメリカ人の家族優先主義は徹底しているな、と驚いた。

 家族が危篤・死亡というなら日本人でも理解するが、例えば、今月、エンゼルスのソーシア監督は、娘の大学の卒業式に出るため、2試合休んだらしい。『朝日』はこれを「特殊な例」としながらも、直後にマーティーキーナート氏の「米国では、完全に家族の方が野球よりも上。家族を優先させて、批判されることはない」という言葉を引く。原監督の欠場にしても、マシソンのコメントは「家族が一番大事。プレーにも影響が出る。米国のロッカールームで『なぜ行くんだ』という話にはならない」というものだ。大リーグには、3〜7日の忌引休暇や、最大3日間の父親産休もあるらしい。数億円、数十億円といった年俸を得ている選手ともなれば、1打席がん百万円、1球が十万円以上にもなる。彼らが1日試合を自己都合で欠場することのダメージは大きい。それでも、理由が「家族のため」となれば、許されるわけだ。

 一方、日本はそうではない。高校現場にしても、部活で土日の多く(全て)をつぶしているなどという論外が日常である上、「仕事のため」という一言で、家族への忍従を強いたり、教員自身の我慢を求めたりというのは「自然」もしくは「当然」だ。幼い子どもが保育所で熱を出しても、職場を離れて迎えに行くには、相当な気苦労が必要だ。もちろん、学校以外のほとんどの職場でもそうなっているだろう。

 問題は、「家族のために仕事をしている」のか「仕事をしている自分を支えてくれるのが家族」なのかの違いだろう。これは価値観の問題だろうか?生物学的に考えれば、生き物というのは子孫を残すことが生存の目的みたいなものだから、そのための重要な単位である家族は最優先に考えられるのが当然で、前者が「正解」ということになる。もちろん、仕事自体にも価値ややりがいがあるのだから、ゼロか百かの議論をするわけにはいかないけれど・・・。

 おそらく、日本には「滅私奉公」「勤労は美徳」という倫理観が深く根付いていて、だからこそ、家族のために仕事を休むということが、怠慢であるかのような目で見られるのだ。『朝日』は野球の記事なので、アメリカ以外の国がどうなっているのかに触れていないし、外国の倫理が日本の倫理よりも合理的だ、模範とすべきだとは限らない。むしろ、生物の基本から遠いことほど文明的・文化的だと考えられる傾向は強いわけだから、そう考えれば、日本の方が進歩的だという理屈すら立てられる(実際は、上位者=為政者や資本家にとって都合のよい思想をすり込まれただけだろう)。

 だが、異質な価値観に当面して、自分たちの常識を疑ってみることは大切だし、そもそも大切なのは「仕事」でも「家族」でもなく、少しでも多くの人が「幸せ」を実現させることなのだから、その原点を意識しながら考えてみることが大切だ。ただ、私はこの記事を読んで、一昔前よりもよくなったとは言え、日本の現状はまだまだ「仕事」にシフトしすぎかな、「ワークライフバランス」における「ライフ」の部分は、もっと重要視されてもいいのかな、と思うようになった。