漱石と光太郎、または、博士号と芸術院会員



 4月20日から、『朝日新聞』がちょうど100年前の連載小説、夏目漱石『こころ』をリバイバル連載している。高校の教科書でも、必ずと言っていいほどその一部が採録されている超定番教材だ。私の場合、全文は岩波の『漱石全集』で2〜3度読んだことがある。もちろん、その時は短い時間で、通して読んだ。しかし、確かに『こころ』は新聞連載小説であって、当時の人々は結末が分からない状態で、少しずつ読んでいたのだ。今、毎週5日、細切れでこの作品を読んでいると、既に結末が分かっているにもかかわらず、不思議と、これから先どうなっていくのだろう?というワクワク感が心の中に兆してくる。今まで思っていたよりもはるかに推理小説めいた作品なのだな、と再認識させられている。

 『朝日新聞』は、記事を学校の授業で使うことを意識しながら組んでいることがよく分かる新聞である。『こころ』のリバイバル連載に当たって、言葉の意味に関する注や、漱石とその時代についてのコラム的な記事を付け加えていて、それがまた非常にためにもなり、面白くもあるのだが、そういったオマケを全て含めて、A4一枚にうまく収まるようにレイアウトされている。宮水(実質的には私)は昨年までの2年間、NIE(Newspaper in education=教育に新聞を)の研究協力校というのを引き受けていたし、今年は私個人が、宮城県NIE委員会の推進委員という立場にある(何もしていないけど・・・笑)。新聞記事を教育活動に使うということについての意識は高い方だと思う。ただ、NIEを推進するためには、現場教員の意識だけではなく、新聞社が学校で使いやすいように記事を組むことも非常に大切だ。少し話がそれた。

 ところで、昨日の『こころ』オマケには、「漱石こんな人」というタイトルで、漱石が博士号を拒否した話が載っていた。それによれば、文部省から「博士号を授与するから出頭されたい」という手紙が来た時、漱石は、予め受ける気があるかどうかを打診すべきだ、そもそも博士号など学問を国が序列化する制度だ、と腹を立て、断りの手紙を書いたとのことであった。後で我が家の『漱石全集』をパラパラ見ていたら、博士号辞退に関する漱石自身の文章がとりあえず二つ見つかった。ということは、かつて読んで知っていたはずだ、ということだ。新聞で読んで新鮮だったのは、単に自分の記憶が劣化していたからということらしい。

 さて、私がこの話を面白いと思ったのは、まず第一に、博士号の意味や授与の仕組みが今とずいぶん違っていたことを知ったからである。へえ、当時は論文を提出して本人が学位を申請するのではなく、なにがしかの業績に対して文部省が一方的に授与を決定するものだったんだ、と驚いた。今の博士号は、学識についての多少の証明であって、「学問を国が序列化する制度」でもないだろう。

 そして第二に、高村光太郎に同様の話があるからである。もっとも、こちらは博士号ではなく日本芸術院会員である。せっかくなので、高村光太郎芸術院会員辞退の顛末を紹介しておこう。光太郎は2回推薦されて2回とも辞退(拒否)しているのだが、その顛末を「日本芸術院のことについて〜アトリエにて1〜」(1953年12月26日)という随筆に詳しく書いている。

 1回目は1947年、岩手県山口村(現花巻市)の山間に暮らしていた高村の元に、「帝国芸術院」から会員として推薦する旨の手紙が届いた。手紙は、芸術院会員として推薦したので、同封の調書と履歴書に必要事項を記入して返送して欲しい、というものであった。光太郎は、芸術院は政治的駆け引きによって生まれた不純なものであって、とてもそんな所の内側に自分が入ることはできないと考え、辞退した。

 2回目は1953年、東京のアトリエに同様の手紙が、今度は「日本芸術院」から届いた。前回より要求は控えめになり、求めているのは承諾書であったが、辞退する旨の返事をしたところ、芸術院事務長がアトリエまで来て、辞退の理由を書面にして院長に提出して欲しいと頼んだ。どうやら、これが光太郎の逆鱗に触れたらしい。次のように書く(現代仮名遣い・新字体に改)。


 「私はこの事は理由書を提出して辞退の許可を得るというようなものとは違うと思うので、理由書は出すに及ばないのではないかと説明した。既に就職している者が辞職をする時などは理由書を提出して許可を得る必要があるのは当然と思うが、今度のようなただ推薦するというような場合には応か否かを返答すれば足りることで、「なぜだ」と質問されるいわれはない筈である。仮に理由書を提出したとしても、それを調査して、辞退を許さないというようなことをすれば、それは越権のことになるであろう。許すも許さないもないことだからである。」


 誠に正論である。また、1回目の辞退の後で、彼は「赤トンボ」と題した次のような詩を作っている(1949年10月24日)。


禿あたまに赤トンボがとまって

秋の山はうるさいです

うるさいといへばわれわれにとって

芸術院というものもうるさいです

美術や文學にとって

いったいそれは何でせう

行政上の権利もないそんな役目を

何を基準に仰せつけるのでせう

名誉のためとかいふことですが

作品以外に何がわれわれにあるでせう

(中略)

作家は作ればいいでせう

政府は作家のやれるやうにすればいいでせう

無意味なことはうるさくて

禿あたまの赤トンボのやうです


 漱石と光太郎に共通するのは、日本人離れをした強靱な「自我」である。漱石が「自己本位」という言葉でそれを発見したいきさつは、「私の個人主義」(1915年)に詳しい。光太郎については、漱石の「自己本位」に相当する都合のよい言葉はないが、執拗なまでの「自己」へのこだわりは明白である。漱石はロンドン、光太郎はニューヨークとパリ、どちらも20世紀初頭の欧米がその発見の舞台だ。彼ら自身の素質に加え、欧米の個人主義が影響を与えたことも確かだろう。


「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りました。これから先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております」(漱石から文部省への手紙)


 自我に目覚め、自分自身の独自性とその価値を見出した時、あらゆる外付けのものは色あせる。彼らの自己発見から100年。権威を否定し、物事や人物の本質を直視する思想は、いまだ日本には根付かない。