議員辞職はしない方がいい



 今更ながら、都議会のヤジ問題に触れておこうという気になった。

 多くの人が言うとおり、一議員の問題として幕引きをするのはお粗末すぎる。映像を見れば、いろいろな人間がからかうようにヤジを飛ばしているのは明らかだ。だが、鈴木議員は、会派離脱するだけでは不十分で、議員辞職すべきだという意見については、少し違う思いがある。

 私だったら、それ以前に4日間ウソをついていたことも含めて、恥ずかしくて公職には就いていられないと思う。私生活に何かの問題があった、などというのとは訳が違うのだから、辞職せざるを得ない心境に追い詰められるのが「まともな人間」というものであろう。だが、それは個人の事情だ。社会全体としての利益を追求しようとすれば、むしろ鈴木都議が辞職しないでいてくれた方がよい。

 鈴木議員が辞職しなくても、議員には任期というものがあるので、やがて選挙が行われるわけだから、本人が立候補すれば、そこで落とせば済むだけの話である。もちろん、それまで、品性下劣で思いやりの心を持たない人間が議員の席を温めているのは不愉快だが、それは選んだ責任として都民に我慢してもらうのも「勉強のうち」、である。むしろ、本人が辞職して一件落着、1ヶ月もしないうちに問題が過去形になってしまうよりは、問題を次の選挙まで引き延ばして、鈴木都議ではなく、「民」に問いを突き付けた方が、健全な社会を作る上での効果は大きいのではないか。鈴木議員一人の問題として幕を引こうと「決議」に賛成した議員も、全て落選させればいいのだ。

 もっとも、私はそんなことが起こるとは思っていない。深刻な被害に苦しむ人がたくさんいる中、海外へ原発を売り、国内での早期再稼働を目指す自民党は、震災後の2回の国政選挙でも、正に被害者自身によって議席を与えられたのである(福島選挙区での圧勝)。こういう選挙民の心理が、私には理解できない。だから、「民」にとって、原発に比べれば、金にもならない議会の破廉恥ヤジなんて軽いものではあるまいか、という気がする。

 また、鈴木都議が多少の後ろめたさを感じて、次の都議選に立候補しなかったとしても、代わりに出てくる人が一転してまともである可能性も低いだろう。曲がりなりにも民主主義のシステムが整備され、機能している状況下では、議員の質は民衆の質を反映するのであり、そんなものが一瞬にして変わるということは考えられないからだ。

 6月24日「天声人語」に「そういう政治家(平居注:男らしさを誇って女性を軽んじる男)はなぜか外交面でも強面に出たがる人が少なくないようだ。」とあったのを読んで、あることが思い浮かんだ。

 私は、かつて橋下大阪市長について書いた一文(→こちら)の中で、野田正彰『させられる教育〜思考途絶する教師たち〜』(岩波書店、2002年)という本を引いたことがある。日の丸・君が代強制問題を追及したその本には、「日の丸・君が代の強制には、なぜか破廉恥教員や官僚、国会議員が必ず登場する」という一文があって、その後に、セクハラ問題を起こした教員、受託収賄罪で逮捕された国会議員、収賄罪で有罪判決を受けた文部官僚の例が紹介されている。そして、最後は、「なぜこれほど、日の丸・君が代強制による抑圧には、歪んだ人物が集ってくるのだろう。人の心を蹂躙する者は、男らしさを強調し権力に擦り寄る性癖に通じているのだろうか。」と結ばれる。

 今回のセクハラヤジの主(の一人)であった鈴木章浩という都議は、2012年に右翼がかった10人の人物が尖閣諸島魚釣島に上陸した時のメンバーの一人である。その時、彼らが日の丸を振り回していた映像は、私の記憶にも残っている(旗を持っていたのが鈴木都議であるかどうかは不明)。

 どうしてもこれらはつながり合う。外交・セクハラ・日の丸/君が代だけではなく、更に南京大虐殺従軍慰安婦といった歴史認識の問題でも、一定の方向性を持つに違いない。勇ましいことを語り、強面である人間は、弱い人間の前でますます勇を誇り、ふてぶてしくなる。人の気持ちに対するデリカシーがなく、図々しい言動によって、人の気持ちを踏みにじって恥じるところがない。一方で、大衆はそのような強面の人間に、自分の不満や苦しさを解消してくれるのではないかという安易な期待を抱き、寄らば大樹の陰と付き従って、世の中の進む方向を誤らせる。社会全体における「いじめ」の構造だ(昨日の『朝日』に載った投書=高校教員・高橋昌子「いじめの止め方 都議さん教えて」はこの点を上手く指摘して秀逸だった)。

 もう一度言うが、民主主義の社会においては、その制度(秘密投票に基づく普通選挙)が維持されている限りにおいて、議員と民衆は一体である。だからこそ、鈴木都議の辞職といういわば個人的解決で済ませるのではなく、次の選挙で、鈴木都議をどうするのか、彼が所属していた自民党をどうするのか、徹底追求の決議に反対した議員をどうするのか、といったことを「民」に問いかけた方がいいのである。「民」が賢くならなければ、議員をどうこうしても、モグラ叩きでしかないのである。物事は、部分的現象ではなく、構造と本質において考えられるべきなのである。たとえ「民」がろくでもない選択しかしないとしても、それが現在の「民」であると観念し、民主主義の限界としてあきらめることも民主主義だし、また、将来へ向けて賢くなっていくためのやむを得ない道程として辛抱すべきでもあるのである。