日本共産党について



 一昨日、山から帰って来て着替え、買い物に出ようと思っていたら呼び鈴が鳴った。玄関を開けると、そこに立っていたのは尊敬すべき大先輩、既に定年退職された元高校教員のK先生とI先生であった。おや、この二人が一緒に我が家へとはどうしたことか、と思ったところ、K先生が『赤旗』の日曜版を取り出して、購読して欲しい、とおっしゃる。私は一考さえせずにお断りした。いくら尊敬するK先生、I先生の頼みでも、これは首を縦に振るわけにはいかない。

 私も人から頼まれて、かつて(20年くらい前?)『赤旗』という日本共産党の機関紙を購読していたことがある。多分、1年もしないうちに止めた。こんな新聞を読んでいたら、私は日本共産党のことが徹底的に嫌いになる、と思い、止めたのである。『赤旗』を読めば日本共産党への理解と共感が大きくなると信じている党員諸氏からすれば、正に思いもよらぬ反応であろう。だが、確かにそうなのである。

 私はその意見の合理性・哲学性や大衆への献身性において、日本共産党を高く評価してもいるのだが、『赤旗』などを読んでいると、どうしても距離を置かざるを得ないものを感じるのである。何と言っても、人間に対する白黒の付け方が峻厳である。すばらしい人物は徹底的にすばらしい、悪い奴は徹底的に悪く描かれる。次は、党大会や機関会議に関するレポートである。そこには、必ず満面の笑顔にあふれた出席者の写真が載り、「希望と確信の持てる会議だった」と総括される。ある一つの方向性で全員が強く一致しているのである。この2例で十分だろう。日本共産党が「覇権主義」として強く批判するかつてのソ連や中国(こちらは今も?)と同じだ、と思う。北朝鮮も同様かも知れない。模範的な「労働英雄」の存在が「○○に学べ」という文句とともに大々的にPRされる。指導部は絶対視されて、会議では全員一致で執行部提案が可決される。そこに異論を差し挟むことは難しい。異論を差し挟めば、「学習が足りない」と批判されるか粛清されてしまう。だから、常に内輪もめをしている他の政党の方に、人間らしさと寛容とを感じてほっとするという現象も起きる。もちろん、私がこんなことを言えば、日本共産党は事例を挙げて反論するだろうが、私が『赤旗』を読んでいて受けた印象は変えようがない。

 にもかかわらず、私が現在の日本共産党に好意的で、全体として見た場合、かつてのソ連や中国の共産党よりもはるかに健全であると思うのは、何のことはない、日本共産党が権力を持っていないからである。ただ、本質的な構造は同じであり、日本共産党が政権を握ったら、その時は間違いなく覇権政党になってしまうと思う。これ以上『赤旗』を読んだら、そんな共産党の負の部分の印象が強くなりすぎる。私は自分と共産党との関係(←あくまでも意識の上だけでの関係)を守るために、『赤旗』購読を停止して、知りすぎないようにするという方法を採ったのだ。だから、私がK先生、I先生の頼みを断ったのは、K先生やI先生のためでもある。両先生にもこんな話はした。理解してもらえたかどうかは分からない。

 私のことを共産党員だと思っている人が時々いるらしいが、以上のような理由で、私は無党派であり、できるだけニュートラルに物事に接し、その時その時、是非を判断したいと思っている。どうせどんな組織に入ったところで、その組織内で私が異端となることは目に見えているのだから、それが誰にとっても円満な方法だ。「無党派」の一つの姿でもあるだろう。