函館本線121レ(2)



 函館本線121レに乗る前の段階、青函連絡船に触れておこう。言うまでもなく、北海道と本州とを結んでいたこの連絡船も、青函トンネルの開通に伴い、1988年3月末に廃止されてしまったからだ。

 とは言え、驚くほど記憶が希薄である。何しろ、30時間以上かけて青森駅に着いた時には疲れ果てていた。もちろん寝不足もひどかった。乗り換え桟橋が思ったほど長くなかったこと、人でごった返していたことは覚えている。乗る直前に「乗船名簿」を書く場所があって、小さな紙に名前を書いたのが新鮮な体験だった。記憶が曖昧なのは、乗り換え桟橋と船が密着していて、表示に従って歩いて行けば、船内に入ったという実感すらほとんど持てないほどスムーズに乗船できたからである。乗った船が何丸だったかも覚えていない。乗船すると、ほとんどその瞬間に眠ってしまい、目が覚めると函館に着岸間際だった。この私が、船内探検も、外の景色を見ることも出来なかったのである。

 特筆すべきは、この時、グリーン席の切符を持っていたことだ。夏のピークシーズンでもあり、相当苛酷な旅行でもあるので、宿に泊まるつもりで少し贅沢をしようと、グリーン券を買っていたのだ。青函連絡船のグリーン席には自由席と指定席があったが、私たちが買ったのは指定席である。自由席は1000円、指定席は1500円で、1500円というのは200Km未満の特急料金と同じだから、高校生にとっても贅沢と言うほど高い金額ではなかった。だが、青函連絡船には2000円の寝台というのもあったのに、そちらを買わなかったというのは、快適さと懐具合と「分相応」とのバランスで、1500円のグリーン指定席が限度とわきまえたからだろう。この500円をめぐる攻防は面白い。

 函館で121レが出るまでの2時間をどう過ごしたかの記憶はない。天気はほどほどによかった。列車はガラガラだった。同じ船に乗っていた人々は、接続列車である特急「おおぞら1号」(釧路行き、4:45発)、「北海」(旭川行き、4:50発)、急行「ニセコ1号」(札幌行き、5:05発)に乗って、いなくなってしまったのだ。昨日書いたとおり、これらのうち「北海」と「ニセコ」は函館本線倶知安)経由である。同じルートでも、「北海」に乗れば9:15に札幌に着けた。

 北海道に渡ったのは全員初めてだった。グリーン席でよく眠れたというのもあったし、大沼、駒ヶ岳、渡島湾と、期待どおりのすばらしい風景が後から後から展開してくるのに興奮して、もう疲れは感じなかった。

 当時の普通列車というのは、理由のよく分からない長時間停車がたびたびあった。蒸気機関車の時代なら、水や石炭の補給も必要だっただろうが、電気やディーゼルではそういう事情もない。単線区間の列車交換や、特急による追い越し以外に、長時間停車する理由など思いつかないのだが、実際にはそれがたびたびあったのである。

 室蘭本線との分岐駅・長万部駅では30分停車した。9:50着、10:20発である。私たちは札幌に1泊して遊び、翌日夜の急行「すずらん6号」で函館に引き返し、函館で1日遊ぶと再び深夜の青函連絡船に乗って、8月12日の特急「みちのく」に乗ることにしていた。友人たちは「みちのく」で上野まで戻るが、私だけは仙台で降りる。私が仙台を離れるのは、8月15日で、寝台急行「新星」を利用するつもりだった。当時、駅における指定席券の発売開始は乗車1週間前(同じ曜日の日)で、当日券以外は10:00〜17:00しか扱わないことになっていた。だから、出発前に「新星」の寝台券を入手しておくことは出来なかった。121レに乗った8月9日はその6日前に当たり、寝台券の発売は前日から始まっていた。ちょうど前売り指定券の取り扱い開始時刻に、みどりの窓口のあった長万部駅で30分の時間があったことは好都合だったが、その前日、発売開始日に仙台で1時間以上の時間があったのに、なぜみどりの窓口に行かなかったのかは分からない。当時は、自家用車で動く人が少なかったからだろうか、指定券の入手が今よりはるかに困難だった。夏休みや正月前後の切符を売り出す時期など、大きな駅のみどりの窓口は、発売開始時刻のずいぶん前から長蛇の列が出来てごった返していた。何しろお盆休みの時期である。6日前では、売り切れていてもおかしくなかった。

 長万部駅みどりの窓口も含めて閑散としていた。本線同士が分岐する駅として重要ではあったが、町自体にはほとんど人が住んでいなかったのである。私は、1日遅れながら、並ぶこともなく、悠々と「新星」の寝台券を申し込むことが出来た。

 長万部駅みどりの窓口は、V型と呼ばれる縦長の指定席券を発券する端末を備えていた。それは、駅のコンピュータ端末に、駅員さんが駅名や列車名のゴム印を差し込み、中央のコンピュータから送られてきた座席番号等と合わせて印字するという半自動の指定席券だった。当時、ほとんどの駅ではN型という横長の指定席券に変わっていた。出発前に姫路駅で買った青函連絡船用のグリーン指定席券もN型だった。私はそれが嫌いだった。縦長か横長か、という問題ではない。まだ日本語ワープロも開発されていない時代で、全自動のN型指定席券は、駅名や列車名が全てカタカナで印字されていたのだ。私はそれに事務的な冷たさと退屈を感じた。そもそも、カタカナと数字だけの切符は美しくなかった。用が足りればそれでいい、というものでもなかろうと思った。だから、長万部駅で、端末の左右に駅名や列車名のゴム印がずらりと差し並べてあるのを見た時、大喜びしたのをよく覚えている。

 幸い、座席(寝台)は残っており、間もなく、切符が機械からカタカタと打ち出されてきた。最後に、駅員さんが切符の上部に券種のスタンプを手で押すと完成する。駅員さんは「特急・B寝台券」というスタンプを押した。長万部の駅で「新星」の切符を買う人などいるはずがない。当時、寝台急行は珍しくなかったが、「新星」という格調高い列車名から、駅員さんは特急であると勘違いしたのであろう。かくして、金額は自動印字なので急行料金になっているが、券種は特急券という珍なる切符が私の手に入ったのである。(つづく)


(注)徳江茂『きっぷの話』(成山堂書店、1994年)によれば、Y型、V型、W型といった半自動の縦長指定券は、全自動化された新型機の登場とともに姿を消し、1975年(昭和50年)3月に全廃された、とある。しかし、上の「寝台特急・新星」の切符を始め、1975年以降に発券された縦長指定券を、私は少なからず持っている。そしてその最後が、この長万部駅で買った切符だ。全廃されたのは、1980年ではないだろうか?

(注)急行「新星」は仙台発23:20、上野着5:36。仙台〜上野は寝台列車で移動するには短すぎる。そこで、この列車は、21:30に入線し、その時刻から寝台が使えるようになっており、『時刻表』にもそのように注記されていた。おそらく、全国を探しても、このような列車はなかったはずだ。